2012年9月 ⑩
怖くなるんだろう、そこから一歩飛び出すことに。自由になることに。
何かに縛られてないと、バランスを保てないと思ってしまう。自分の中から湧き上がる「自分」を外へ放出することを、なぜ、わたしたちは恐れるのだろうか?それもすべて自分なのに。
本当の自分を知りたいの?知りたくないの?
人が信じるものに興味がある。信じることにはすごくパワーがある。それは生きる源になり得るものだと思う。それさえあれば生きて行けるといっても過言でないくらい。でも、だからこそ手に入れることが難かしかったりする。で、みんな試行錯誤する。いや、もしかしたら、手に入れにくいのではなく、信じること自体が難しいのかもしれない。
信じる力は、人間みな平等に同じ量を備えている。それはもしかしたら、汽車を動かす石炭のように燃料を焚べて発動させるかどうかだ。
お国のために命を捨てる。人間一人一人の価値を見返らなかった日本の昔。「自分を犠牲にする誇らしさ」が薄まって良かった。「自分の命は尊い」と、まっすぐ掲げることのできる、そんな空気を作っていかなきゃ。いつまでたっても何も変わらない。
見えない何かに怯えて生活する。その「見えない悪」を作り出しているのは、個人の持つ「怯え」の正体、つまりは「意識」であって、それを放出することで「見えない悪」が作られていくのかもしれない。ということは、自分で作っているのだ。
怯えたり疑ったりする根本の原因は、正直に「NO」と主張できない性質にあるのでは?自分自身になろうとする時、根っこにある「自分を犠牲にする誇らしさ」という、小さな頃から植え込まれてきたきた滞在意識が邪魔をするのだろう。自分を押し殺すことが美徳だととられやすい環境で。
捨てる必要がある。ドラマはもう終わったのだから。
起こることがどんな内容であれ、「あぁ、わたしのシナリオはこれか」と受け入れられれば、悲しみ、憎しみ、後悔などの過度な感情を経験しなくて済む。起こることには意味がある。自分の魂とか何かのために。
ここで毎日、「わたしにできることは何か?」を考えている。
異端を受け入れにくい社会が生み出すもの。その社会の支払う代償。負での支払い方。
まだ見たことのない世界を見てみたい。
感じたことのない感情を感じてみたい。
弱さから始まるものすべて。
いつかLIMITを迎える。
悲しみはPOISON。
もしも何かが起こっても、それがその人のその時なんだと、受け入れて生きて行きたい。
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