コリン・ウィルソンと修業
さっき妻にコリン・ウィルソンのSF小説『精神寄生体』のあらすじを話した。
コリン・ウィルソンが自らの宇宙を展開する出発点は、「眉間に集中する」である。第三の眼とも言われる松果体があるあたり、即ち眉間に意識を集中する行を行うと、「エネルギー」が呼び起こされると、ウィルソンは言う。
普通の体験だと、一定時間集中すると疲れ切ってヘトヘトになるもので、休息が必ず必要になるものだが、ウィルソンの「思想」では違う。
集中すればするほど活力が湧いてきて、無限に集中出来るとするのが、コリン・ウィルソンの思想である。この無限の集中の先に超人もある、とウィルソンは説く。
精神寄生体というSF小説では、集中力は楽観主義のエネルギーを解き放つだけではなく、サイコキネシスまで発動させてしまう。
集中力によって起動するサイコキネシスという発想はだが、確かに魅力的ではある。
そして同時にとても漫画チックだが。
私はこのアイディアに頭をやられていた頃、『心の力を証明したいんや!』と念じながらお風呂で鉄の手すりを握りしめた事がある。
その時、何かの力が腕から手すりに流れるような感じがした。
見たところ手すりに変化などは何も生じなかった。しかし私は確かに自分の腕から何かが伝わる感じを味わったのである。
これと似たような経験が、北海道の温泉場に居た時にもあった。
私は四天王寺の縁日で買った、ネパールの、白銀製の護符を、茅沼温泉の霊験あらたかな湯でひたすら磨いていた。
温泉にのんびりとつかるのでもなく、金属の護符に湯をかけては指でキュッキュと磨くってことをひたすらやっていたのである。
そして湯から上がって浴衣に着替え、無意識の内にその護符を握りしめ、何かを考えた。
何を考えたかは今思い出せないのだが、何か善と関わる事だったと想う。
善の力が世の中に溢れますように、とかそんなことだったかもしれない。
その時、手の中の護符が、キーーンと、冷えるというよりも冴えるような、そんな感覚を味わったのである。
私もたまには不思議な体験をするが、最近はあまりそういう事もなくなってきた。
いずれも十年とか二十年前の話だ。
ともかく、
集中すると謎の力が発動して、ってのは、ないわけでもないのかもしれないなぁ、と思う。
だからと言って今から修業してそういう力を身に着けようって訳でもないのだが。
それよりは私は、今を生きる術をもっと知りたひ。
明日も無事生きられるかどうかということ。
無事面接に受かるか、働き続けられるかということ。
そういう事に役立つのであれば、確かに修業も悪くはないだろう。