衰弱死(35)
仕事に就けるか心配です。そして、仕事を続けられるか。
年末倉庫の仕事に就こうと決めたのにドタキャンした。それはそれで良かったかもしれない。三日働いただけなのに、今も腰が疼く。温度だけではなく、感情的にも、冷えた倉庫だった。
それはそれとして。
昨日も夜、少しウィルソンの『現代殺人の解剖』を読んだ。事例をこれでもかと挙げてくるのに飽きてきて、半分読み飛ばしたら訳が分からなくなってきて、途中でさっさと寝てしまった。
その中で女性崇拝について触れているところが良いと思った。漢にとって、女は只の女ではなく、女神なのだ。女は生き物に妙にやさしい事が多いし、気軽でかつ地道な生き物だという気もする。いい匂いがすることもあるし、柔らかい。そんなこんなで、男は女を只の生き物とは思ってはいない。
少なくとも、憧れの中ではそうだ。
私が思うに、良き家庭人とは、この女神崇拝を上手く地上に着地させられた人の事ではないか?私はダメだった。私には怠け心と否定的な感情が強すぎて、私の中の女性崇拝にまともな表現を与える事が出来なかった。
女性に対するロマンティシズムがあり、その一方で、性犯罪をはじめとする、女性への酷い暴力がある。私は、女性への暴力は、女性崇拝の失敗ではないかと考える。女性崇拝が、一人の生身の女の人の上にちゃんと行われる時には、男女に幸せが訪れるのではないか。女性崇拝は幻影に基づくものかもしれないが、同時にそれは女性の本質に捧げられているのかもしれず、この事がうまく機能すればなぁと思う。
ウィルソンは他の本の中で、私が思うに女性崇拝の理想的な形といえるものを紹介している。
それはロマン・ガリという人の小説の紹介だったと思うのだが、
戦争で、ある部隊が捕虜になった。牢屋に閉じ込められて、その部隊の人たちは次第に規律をなくしていった。部隊の士気が如実に下がるのを見かねた隊長は、一計を案じる。それは一人の架空の女の子を空想し、その女の子が、あたかもみんなと一緒にいるかのように振る舞う『ゲーム』を考案する事だった。この策は功を奏し、部隊の者たちはその子が見ているからと、だらしない格好でいたりするのを止めるようになり、部隊に規律が戻ってきた。
監視している側の兵士たちは、捕虜たちが元気を取り戻したのを見ていぶかしく思う。そしてついにこの架空の女の子の存在を突き止めた。監視側の兵士も一計を案じ、捕虜の隊長に、その女の子を引き渡せ、という。隊長はこの引き渡しを拒み、自らが独房に入る。かくして、この部隊の高められた士気(と架空の女の子)は守られた・・・(コリン・ウィルソン『新実存入門』からの孫引き、の、はずです)
私はこれこそロマンティシズムだと思う。女の子は、『何か』なのだ。私の場合のこのような見方には、心の弱いところがあるかもしれない。人一人で生きる強さを私も持たねばならないというのは事実だろう。しかしそれと同時に、私には昔から、性のロマンティシズムがあった。永遠の女性に憧れているのだ。女性にはなんとなく、生命が宿っている。生命の光と繊細さが。
今『無動機殺人の解剖』の、半分くらいのところです。事例のオンパレードは、半ば読み飛ばしつつ。ウィルソンの理論に興味がある。前にも書いたけれど、ウィルソンの知覚と意志の説に私は賛成しない。意志を向ける先は、普通の勉強や仕事でも全然構わないはず。意志が活性化するように何らかの活動領域を持つようにし、自らの否定的な感情にあまりかかずらわないようにすれば、楽しく生きる事が可能だと私は思います。
そういう事など考えつつ、残りの部分もさっさと読んぢまいます!