自然淘汰
ある日、私は思索いたしました。いつか、科学が迷信を超える日は来るのだろうかと。それには、偶然というものの再吟味が必要となるだろうな、私はそんな風に思ったのです。
考えてみると、この世は何もかもが偶然で出来ている。それって逆に変だなぁと思うのです。ぼくが今大阪に住んでいる事も偶然なら、ぼくと妻が出会ったのも偶然、二人がチョコザップの前を通りかかってダイエット始めたのも偶然なら、たまたま町内会の旅行に行ったら楽しくて町内会で役員になったのも偶然。挙げていけばきりがないほど、ぼくたちの人生は偶然で出来ている。しかもその偶然に一つ一つ大きな意味があったとしか思えないというのも、実感として言える事なのです。
あの日、あの時、あの人があの場所に居た。それは本当にたまたま偶然の事だったのですが、もしその場にそのキーパーソンが居なかったとしたら、世界はまた違った歴史を刻む事になっていたでしょう。そう考えると、そもそも偶然というものは、単なる偶然として切り捨てても良いようなものではないのかもしれません。
その日から私は、偶然についてもっと良く知りたい、考えたい、そしていつか何か書きたいと願うようになりました。
ダーウィンの言う自然淘汰、それもまた偶然についての話です。たまたま分子と分子が出会って有機物が出来て、その有機物の組み合わせから生物が誕生し、そしてその後長い歴史が流れて、今わたしたちがスマホをいじっている。それを考えると偶然というもののおそろしさになんとなく思いを馳せてしまう訳です。
偶然について考えようにも何もうまく考えられない。ただあまりにもすべてが偶然すぎるよな、と思うだけなのです。
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