杜子春と加藤智大
今度杜子春について書いてみ鯛。『杜子春』とは、仙人を目指す若者が、地獄で折檻されている両親を助けようとしてえらい精霊との約束を破ってしまい、結局仙人にはなれなかったけど・・・小さな安定した住まいをもらう、というオチの、芥川龍之介作の話である。
これは、仙人を目指すことよりも親孝行の方がにんげんらしくて大事な事なんだよと芥川が言っているかのような作品で、少し前まではぼくはこの芥川の思想に深く感動を覚えていたものだった。
けれども、よくよく考えてみると、その芥川氏は自殺をなさっておられるのだ。
こういうのどかとも言える思想を抱いていた人が、なぜ自殺に至ったのか?
そうした目で見てみると、『杜子春』の思想にもつっこみどころがあるような気がしてくる。
すなわち、親はなぜ地獄にいたのか?生前どんな悪いことをしたのか?
それを杜子春は知っていたのか?
あるいはひょっとしたら、両親が折檻されているのは、杜子春に対して犯した魂の殺人に対する罰だったのではないか?
そんな事を考えてみると、杜子春が両親を救って仙人への道を閉ざされる事だけが、必ずしもにんげん的な事ではなくて、心を鬼にして親を見捨てる事も、時には必要になってくるのではないかと思う。
仮に杜子春の両親が天国にいくような親だったとしたらどうか?
杜子春は無事仙人になっていたのではないか?それを考えるならこれは明治の親ガチャの話かな、と思えてくる。
毒親はいつの時代にも星の数ほどいるものだと思う。芥川の親もそうだったんじゃないのか。芥川はこの話を書いて自分に酔っていたんではないのか?その隙を、コリン・ウィルソンの言う『精神寄生体』にやられっちまったんぢゃあないのか。
わたしは精神寄生体は親のおぶさりの事だと考えている。親におぶさられ、そして親におぶさる。そんな相互依存の中で、両者ともに不幸になり、世の中にも不幸を連鎖させる。
そんなのはもうごめんだ。ごめんね、ママ。さようなら(この世にサヨナラでもなく)。