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命の灯

ヘアカットに出かけた帰り道。

交差点で、ゆっくりと左に切ったハンドルが、まっすぐに戻ったちょうどその時、どこからか救急車のサイレンが聞こえてきた。

バックミラーに飛び込んできたのは、右後方から迫ってくる赤色灯。

スピードを落とし、左車線を徐行する車列の最後尾についてまもなく、
右側車線を追い越していったのは、ちょっと見慣れない形の緊急車両。

後方ドアに書かれていたのは「新生児救急車」の文字だった。

「新生児を搬送する、専門の救急車があるんだ…」

赤ちゃんに何かがあったのだろうか。
お母さんは大丈夫だろうか。

その一瞬に、いろいろな思いが渦巻いた。
25年前、息子が生まれた日のことを思い出したのだ。

「だから、ちょっとでも変わったことがあったら、
すぐに来なさいと言ったでしょう。今から入院!」

ある秋の晴れた日の朝、いつもより強いお腹の張りに違和感を覚え、
定期検診を受けている産科へ足を運んだ。

1ヶ月ほど前からお腹が張り気味で、できるだけ安静にしているようにと言われていたのだ。

お腹の張り。つまり、陣痛がいつ始まってもおかしくない状態ということなのだが、のんきな私は全くピンと来ていなかった。

「とりあえず、診察してもらっておけば安心かな」

そんな軽い気持ちから、自分で愛車を運転して出かけた病院で、私は先生にこっぴどく叱られたのだ。

「は? 入院!?」

「駐車場に置いた車、どうしようかな」と、とぼけたことを考えていた私だったが、実は知らないところで大変なことが起きかけていた。

出産予定日は、まだ3か月も先。ベビーの体重は800グラムしかない。
それなのに、わが子はせっかちにも、今にも生まれ出ようとしていたのだった。

いわゆる、切迫早産。

「一度、家に帰ってもいいですか? 入院の準備もないし、車を自宅に置いてきたいです。家族にも説明を……」と言う私を、先生はさらに声のボリュームを上げて遮った。

「ダメ! 緊急事態なんだよ!」

すぐに病室が用意され、ベッドに横たわるよう指示された私だったが、そのひっ迫度合いが理解できないまま、「せいぜい2~3日で帰れるよね」と思っていた。

しかしこの瞬間から、廊下はおろか病室の中さえ歩くことが許されない日々が始まったのだった。

「人間保育器(先生のネーミングは秀逸だ!)」に徹する毎日が。

「すぐに点滴開始。お腹の張りを止める薬を落とします。」

結局、出産するまでたっぷり3ヶ月、点滴の針が腕から抜かれることはなかった。

病室ではベッドの隣にポータブルトイレが置かれ、食事以外は体を起こすことさえ禁止。

白い壁と白い天井を、ただひたすら見つめる毎日が始まった。

張りの強かった私は、最速で薬を落としても改善の兆しがほとんど見られず、要注意患者のブラックリストに入るまで、そう時間はかからなかった。

普通、この張り止めの点滴は、動悸が早くなって胸が苦しくなったり、手がしびれるなど、副作用が起きやすいそうなのだが、唯一の救いは、どんなに早く、どんなに多く薬を使っても、副作用が一切なかったこと。

そして、点滴の針が腕にとってもよくなじみ、看護師さんたちに驚かれるほど針を刺し替えなくてよかったこと(さすがに入れっぱなしはまずいと、途中で刺す場所を変更したけれど)。

いろんな意味で、すっかり看護師さんたちの間でも有名人になってしまった。

3人部屋の病室では、流産の人、死産の人、切迫流産で同じように動けない人、赤ちゃんに恵まれない人、がん治療の人など、命との様々な向き合い方を突き付けられた人たちが、隣のベッドに入っては出てゆく。

「命」と向き合わざるを得ない日常が、時に喜びを、時に悲しみを伴い静かに営まれ続けた。

そんな毎日が2カ月半も過ぎようとする頃、エコー写真を見ながら先生が渋い顔でつぶやいた。

「……逆子が戻らないねえ……。」

そう。お騒がせベビーはどこまでも「かまってちゃん」。
骨盤の間に体育座りですっぽりと収まっている様子が、はっきりと画面に映っていた。

3ヶ月近くも入院していると、自然分娩の体力もないだろうと判断された先生。

「ええ日があるよ。クリスマスイブはどうや??」

「どうやって…(^^;」

こうしてベビーは12月24日、予定日まで3週間を残し帝王切開にて、この世に出てくることが決まったのだ。

「おーい、泣いてくれよー」

12月24日。手術台の上で一番に聞いたのは、産声ではなく、先生がベビーに呼びかける声だった。

産声……鳴き声が聞こえないのだ。

手術室に緊張が走る。

その時だった。

「ほええーっ……」

なんとも頼りない声が聞こえたかと思うと、再び一呼吸分の静寂。

次の瞬間、「おぎゃー!」という大きな泣き声が響き、ようやく手術室は先生や看護師さんたちの安堵の笑い声で満たされたのだ。

連れてこられたのは、真っ赤な顔をくしゃくしゃにして泣いているベビー。

お世辞にもかわいいとは言えなかったけれど、不安と緊張と恐怖の中にいた私は、嗚咽で声にならない声で誰に伝えるともなく、ただ「ありがとう、ありがとう」と繰り返していたのを憶えている。

新生児救急車のサイレンで起こった気持ちのざわつきは、あの日の手術台の上で「大丈夫なの? 生きてるの?」と、頭の中を駆け巡った不安と緊張をよみがえらせるには十分すぎた。

救急搬送されている赤ちゃんが「なかなかできない経験だったね」と、我が家の息子の誕生のような、懐かしい思い出話に変えることができますように。

小さくなってゆく救急車を見送るうちに、無性に息子の顔が見たくなり、夕陽に向かってアクセルを踏み込んだ。  (終)

8/100

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