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間違った決断

「我々は、間違った決断をする。…」
大統領は、補佐官の私が書いた原稿のとおりにスピーチを始めた。

ことの発端は、2カ月前、国の衛生当局が派遣した専門家集団からの報告だった。
彼らは、この国の南部に位置する小さな村で、ウイルス性と思われる疫病が流行していることを確認した。
その病気は、発熱と頭痛、そして視力の低下を特徴とした。
そして、潜伏期間は2週間と長く、高い感染力と80%以上の致死率を有していた。
有効な治療法は何もなかった。

その村は住民数千人程度の、小さな村だった。
そのため、国がその村を封鎖するのは比較的簡単だった。
対応は秘密裏に進められた。
不要なパニックを起こさないように、そういう名目の下に国の政府が良くやることだ。
報告から1週間も経たずに封鎖は完了した。
最悪の事態は免れた。
政府は皆、そう勘違いしていた。

約1カ月前、近接する別の町でも同じような疫病の症状を示す患者が現れた。
封鎖が失敗していたのでは?という疑念が政府内に蔓延した。
情報が錯綜し、政府は混乱しかけたが、ある優秀な専門家がその原因を明らかにした。
原因は、ウイルスに感染した犬や猫、ネズミだった。
しかも、動物たちは無症状で感染を広げる役割を果たしていた。
発端となった村から逃げ出した動物が、別の町にウイルスを運んだのだ。

事態を重く見た政府は、いくつかのシナリオを想定しながら、対応を進めた。
残念なことに、別の町でも感染者は着実に増えていった。
そして、その状況はマスコミを通じて一般市民にも少しずつ明らかになりつつあった。
早急に政府としての方針を表明しなければならない状況だった。
そして政府は、今日、最悪のシナリオに従い、ある決断をした。

「…我々は、間違った決断をする…」
スピーチは原稿通りに続いていく。
私のスピーチ原稿にはある特徴がある。
それは同じフレーズを何度も繰り返すことだ。
そして、フレーズは、スピーチの中で次第に意味を変えていくのだ。

このやり方は、妻が教えてくれたものだ。
妻は、職場の同僚だった。
年上の彼女は、男っぽい性格に見られがちだが、信頼する相手にだけは甘えてくるようなかわいい一面を持つ女性だった。
仕事の上でも、プライベートでも、私は彼女を信頼し、彼女も私を信頼してくれていた。
子供には恵まれなかったが、私にはずっと妻がいた。
そのおかげで、仕事中も家にいるときも、ずっと幸せだった。
彼女は、私のすべてであり、私の世界そのものだった。

「…このまま手をこまねいていれば、数千万人の犠牲がでるであろう。だが、今日の我々の決断により、それを1万人以下に抑えることができる。…」
本来ならば、妻はこの場に同席するはずだった。
しかしながら、彼女は数日前から体調を崩していた。
大統領や他の同僚たちにもそのことは伝えている。
彼女の看病のために、私もこのスピーチが終わったら休みを取ることになっていた。

「…この決断により犠牲になる人たちは、誰かの子供であり、親であり、連れ合いであり、友人であるだろう。それを失うことは、言葉にしがたい、つらい経験となるであろう。…」
犠牲を伴う決断なのは疑いようがない。
だが、それは仕方のないことだ。
政治とは常に誰かを助ける代わりに誰かを犠牲にする行為でしかないのだから。
大多数を救うことが、大多数が認めることが、社会的には正義になることも世の常だ。

「…我々は、間違った決断をする。この決断は、多くの、大切な国民を犠牲にする。だが、同時に、それ以上に多くの、大切な国民を救う。…」
スピーチが始まるちょっと前、大量のナパーム弾が投下され、発端の村や周囲の町を焼き尽くされた。
幸いにも人口が少ない地域だったため、犠牲は8000人程度で済む見込みだ。
私は、スピーチが終われば家に帰り、彼女を抱きしめているはずだ。

「…我々は、間違った決断をする。だが、この決断に、正解は無い。勝者もいない。ただ、できる限り痛みを抑える。それが、我々にできる唯一のことなのだ。…」
彼女は、約3週間前、その町を訪れていた。
彼女の育ての親を看取るためだ。
複雑な彼女の家庭の事情を知るものは限られており、政府内でそのことを知る者はいない。
私はこの災厄によって付き添うことはできなかった。
数日の滞在ののちに彼女は、家に帰ってきた。
返ってきてから約2週間後、彼女は発熱と頭痛を訴えた。
昨日からは、目が霞んでよく見えなくなっているらしい。

「…私は、間違った決断をする。だが、この決断こそが、将来にわたって続くこの世界を救うのだ。…」
スピーチは原稿通りに進んだ。
繰り返される”間違った決断”は、国民の耳には、”正しい決断”と聞こえ始めたはずだ。

そうだ。
私は、今夜、間違った決断をする。
私は、彼女せかいを救うのだ。


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