漂流教室

僕は中学生までピアノを習っていたのだが、ピアノ教室の待合室には雑多なマンガが置いてあった。
中には途中までしかないもの、巻数が歯抜けのもの、コロコロコミックみたいな定期的に入れ替わるものと様々であった。
その中で全巻揃っている数少ないタイトルの一つがこの「漂流教室」だった。

初めて読んだのは主人公・高松と同じ小5くらいだったと思う。
反抗期もイイトコで、「親に悪態を吐く」ことがちょっとカッコいいとか思っちゃう年頃だった。
そんな僕もこの物々しいマンガを手に取ろうとしたのは、ただただ「待合室にあるマンガを全部読んだろ」と思ったという、それだけの理由だった。

主人公・高松は母親に「ババア!」と悪態を吐いて登校したあと、突如大きな揺れと共に遠い未来へと学校ごと飛ばされてしまう。
砂漠しかない世界で子供たちのサバイバル生活が始まるという群像劇を描く一方で、時には凶行にまで及んで息子との繋がりの手掛かりを探す母親の姿が描かれる。

それまで当たり前に享受してきた生活の全て――衣食住や娯楽だけでなく、知識や判断・行動に至るまでの文字通り全てだ――が両親から与えられたものだと僕は気付かされた。
周りから気が狂ったと思われてもひたすらに息子を想って動く母親と、そうなってしまった母親を拒絶せずに受け止める父親、この両親の姿に僕は「ああ、僕の親もその時はこうして動いてくれるのだろうか」と考えさせられた。
結果としてその10年後には僕は両親から勘当されるし、関係が修復した今でも思いやる愛なぞ無いのだが、その時は本当に「親に悪態を吐くオレカッケー」と思っていた自分を恥じた。
親へ悪態を吐かなくなっただけでなく、描かれる子供同士の殺し合いに深く傷心した僕は、それ以降「死ね」「殺す」といった類の言葉は使わなくなった。
FPSみたいなゲーム中でも一切クチを衝いて出てこないのだから、染み付いているのだろう。

「漂流教室」の話をするとき、必ず僕が持ち出すのは「無限のリヴァイアス」というアニメ作品だ。
主人公たちの年齢帯は違えど、この2つの作品は類似点が多い。

まず、主役が「子供たち」であること。
舞台が「周りと連絡が取れず、極限状態で、集団が一つの閉鎖空間に閉じ込められている」こと。
一口に「群像劇」と言っても、人間の本質に迫るためにはやはり「極限状態であること」「閉鎖空間であること」はマストなんだと思う。
隠せない、逃げられない、裏を返せば普段隠している逃げていることこそがその人の本質なんだと考えている。

ストーリーや配役も実は似ている。
最初は導いてくれる大人もいるが、それを失うことで統率が取れなくなる。
何の特徴もない主人公が指揮を取ることになり(これ中心人物でなければドラマの主人公にならないので当然である)、幼馴染のヒロインがいて、支えてくれる友人、主人公をよく思わない反発勢力の登場、仲間との対立、巻き込まれたさらに弱い立場の子供、非科学的な能力を持ち事態に干渉できるキーマン、そして外敵がいる。
ここまで似ていると、「本質を描く群像劇の"答え"なのではないか」とさえ感じる。
辿る結末は異なるが、双方どちらもよく出来た群像劇で、大変面白い。

「漂流教室」は、主人公の年齢と同じタイミングで触れることができたのがとても幸いだったと思っていて、これがより周りと自分との関係性を気にする思春期であったら?
自分で自分の世話ができる年頃であったら?
きっと今も染み付くほどの衝撃と人格への影響は無かっただろうと思う。

ちなみにピアノ教室には楳図かずお作品がもう一つあり、巻数の揃っていない「神の左手悪魔の右手」だった。
これが「まことちゃん」とかであれば良かったのに、これまたグロテスクなホラーだったものだから、楳図かずお先生があんなに奇抜で面白いおじさんだと知るのは大分先のことであった。

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