シザーハンズ

いつの自体もどこの世界でもマイノリティーというものは目立ち、煙たがれてしまう。
マイノリティーの最小単位は「個」だと思っていて、つまりは自分と同じ人は自分しかいないと考えている。
それを発信していきたいという気持ちを込めて、RDという音楽をやっている。

「シザーハンズ」は思い出話から始まり、ある視点からはバッドエンド、ある視点からはグッドエンドで幕を閉じる。
この構成は「タイタニック」や「スタンド・バイ・ミー」と同じだ(後者はどちらともつかないエンドが一番ニュアンスに近いが)。
コミカルなシーンも多いし、スチームパンクなところもあるし基本的にはロマンスではある。
ただ、この物語の本質は承認欲求と僕は考えている。

大筋は王道のボーイミーツガール展開なのだが、シザーハンズことエドワードは人造人間だし、かなりの奥手で世間知らずでもあるから、なかなか一歩が踏み出せない。
街の人気者でありながら本当に興味を持ってほしい人にはなかなか目に止めてもらえない様は、劇中では滑稽な様子として描かれている。
しかし、街に連れ出されなければ多くの景色と引き換えにその承認欲求を覚えることはなかった。
本人の様子は感情豊かになっていくものの、寂れた屋敷で暮らしていた頃のほうが豊かに見える。
「マズローの5段階欲求」でいうと、社会を知ったが為に社会に属したいという欲求、そして親しくありたいという欲求フェーズに移行したがために、屋敷に戻ることが悲しく切ない結末となっているのではなかろうか。
世界幸福度ランキングで長年トップを独走していたブータンという国が、インターネットの普及でより広い世界を知るようになり、幸福度が下がったという話を聞いたことがある。
井の中の蛙も悪いことではないし、幸せの基準は一律で揃えるものでもない。

自分語りをするのも良くないとは思いつつも、僕も少し周りから浮いた存在ではあったから、エドワードには少しのシンパシーを感じる。
そしてふと周りを見渡してしまったがために、欲求が生まれてしまった。
故に、「シザーハンズ」はあまり他人事には思えないし、この結末を素敵なエンディングだとも思いたくはない。
心に留めておきたい作品だ。

因みに余談ではあるが、「シザーハンズ」には続編はない。
この手の作品はすぐに続編を作りたがるが、続編は商業として意味はあるが映像芸術作品としては意味は無いし、もっと言ってしまえばマイナスになる可能性もある。
続編も派生作品もないからこそ、この結末の余韻を誰もが心に留め、今も語られる作品になっていると僕は思う。

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