「シバタリアン」を初めて知ったのは、駅か何かに打った広告を題材にしたツイートが流れてきたからだ。
ツイートの写真の中、コミカルな同じ顔がズラリと並んだ広告はインパクトがあって、すぐに検索した。
少し前にジャンプ+で完結したので、そのタイミングでよし記事に書くぞと思っていたのだが、ついつい先延ばしにしてしまった。
タイトルはかの有名なゾンビパニック映画「バタリアン」をモジッていて、それは本編中にも出てくる等、映画が一つのキーワードとなっている。
作品の纏まり方も映画のような区切りの良さがあって、それがどうしてなのかを僕はうまく言語化出来ないのだが、兎に角このテンポ感が非常に好きだ。
近年の映画ファンライクな作家といえば「チェンソーマン」の藤本タツキ先生が筆頭だが、藤本先生の「さよなら絵里」もやはり同じテンポ感があって、何かしらの共通項はあると思っているので、これを言語化できるようになればもっと僕自身も面白い作品が作れるような気がしてならない。
なんの特徴もないシバタの顔がズラリと並ぶという性質のギャップが良いコンセプトだと思った。
顔の造形でホラーを演出する作品が多いだけに、この気味の悪さをフィーチャーしたホラーは気持ちが良い。
元ネタとなる「バタリアン」がゾンビであるのに対し、「シバタリアン」はどのシバタも言語を理解しコミュニケーションが取れるのも倒せば良いという単純さがなくて物語に深みが出ているし、別の人間がシバタになってしまったり、シバタになりきれずにいる人や動植物も異質で、よりシバタの不可解さ・気味の悪さが演出されているのも上手いと思う。
クライマックスには佐藤の顔もズラリと並ぶのは盛り上がりが加速して面白い。
シンプルに「やられた」。
物語の面白さだけでいえばコメディーチックでもある「バタリアン」よりホラーとして完成度が高い。
しかし、シバタによる不気味な要素を全て取り除いたとすると、その不気味さに隠れていた物語の切なさと悲壮感にもしっかり作り込みがあることに気付く。
そもそもシバタも佐藤も映画に拠り所を求める孤独を抱えているし、ヒロインの役回りもなかなか虚ろである。
序盤の同級生たちの顛末は人間くさいというか現代でも議論の起こる話ではあるし、水族館の辺りが最も絶望的ではなかろうか。
物語の結末をハッピーエンドだと捉えきれないのは、きっとあの結末で報われたように思えないからだと思っている。