時計じかけのオレンジ
そのタイトルこそ知っていたものの、あらすじも劇中のカットも知らず、ただキービジュアルだけを見たことがあるだけだった。
とてもバイオレンスでショッキングながら、アーティスティックで風刺の効いた作品とだけ評価を聞いた。
なんだそれはと思っていたが、観た後に思った感想はまさにそれだった。
「時計じかけのオレンジ」は70年代の作品ということで、作品としてはまぁ古い。
しかし、当時の時代を見ると現代にも悪名高いロボトミー手術の是非が問われて禁止されていった時代で、精神や人格の矯正というものがホットワードだったのではなかろうか。
その上で、この作品に描かれているものは現代にも通用する不変のテーマである。
この作品で最も核心的なメッセージは、主人公・アレックスがルドヴィコ治療を受け、暴力や性衝動に強い拒否反応を示すようになったことを治療結果として「お披露目」されたシーンの神父の言葉だ。
確かに他人へ攻撃することはなくなったが、「彼が自ら選択した善ではない」と指摘する。
選択した善、つまりアレックス自身の考え方が変わり、判断して行動する結果として現れた訳ではないということである。
劇中では誰もその言葉に耳を傾けることなく、ただ結果のみを見て満足していたが、本質的な倫理観が変わっていないことを指摘できるのは、この神父が真にアレックスのことを想い、そして正しく導こうという善である。
この神父の人柄に心から惚れた。
物語はここで終わらない。
その後、出所した彼に居場所は無く、恨みを買っていたホームレスからのリンチを受け、かつて共に悪虐の限りを尽くした"ドルーグ"の仲間に酷く打ちのめされ、命からがら助けを求めた一軒家でも私的制裁を受けた挙げ句、政治的に利用されることになる。
それら自体は因果応報で然るべきだが、政治利用されたことで敵対勢力からアプローチを受ける。
暴力や性衝動への拒否反応も無くなり、逆にそれを肯定されることになるという、皮肉の効いた結末だ。
ただの起承転結に終わらずに結が新たな起を示唆しつつ、観ているこちらの想像に委ねているワケだが、こういうギミックが僕はとても気に入っていて、この観劇後の余韻が深く残ってこそ良い創作というものである。
しかし、原作ではこれにまだ続きがあるらしく、それを受けてどう感じ方が変わるのかが楽しみだ。
さて、「時計じかけのオレンジ」を語る上で、ナッドサット言葉に触れないワケにはいかないだろう。
劇中で使われるスラングのようなものなのだが、こういったフィクションに独自の文化を描くというのは意外とマイナーで、しかし、同人小説のような界隈では比較的よく見られる。
やはりデメリットとして初見での分かりにくさがありながら、説明を入れてしまうと世界観が途端に安く薄いものになるというのが考えられる。
故に視聴する層に重きを置かなければ成り立たない商業作品では自然と数が減っていくのだろう。
だが、僕はその作者が神として丁寧に作り込んだ世界であることが感じられて、とても好きだ。