握り寿司の歴史
日本の食べ物といったら寿司。現代では日本人にはもちろん、外国人にまで愛されている寿司ですが、今回はこの寿司の歴史について書きたいと思います。
・江戸時代以前の寿司
現代でも日本人の大好きな寿司。寿司には握り寿司の他にも押し寿司やいなり寿司、散らし寿司など様々な形があります。
寿司の歴史はとても古く、平安時代の書物にも出てくる食べ物で相当古くから日本人に食べられているものと分かります。その中で比較的新しいものがここで取り上げる「握り寿司」になります。
・華屋与兵衛と握り寿司
握り寿司の登場は江戸時代後期の文政年間(1818〜1830)。この時代は一つ前の文化年間と合わせて「化政文化」と言われ、浮世絵や歌舞伎、川柳など文化の全盛期であり、私たちが時代劇などを見てイメージする江戸時代の雰囲気はこの頃です。ペリー来航など世の中が物騒になる前で比較的平和な時代でした。そんな中登場したのが握り寿司です。
握り寿司を考案したのは華屋与兵衛だと言われています。
当時売られていた寿司は馴れ寿司や押し寿司で魚を塩漬けし蒸し米と一緒に寝かせ発酵させるなど手間がかかるもので値段も高く庶民が気軽に食べられるものではありませんでした。そこで寿司屋で働いていた与兵衛は誰でも手軽に安く食べられる寿司を作りたいと試行錯誤をくり返します。
そんな与兵衛はある男と出会います。中野又左衛門です。又左衛門は尾張国知多郡半田村で「粕酢」を作っていた男で現在のミツカングループの創業者です。彼から手に入れた粕酢をご飯に混ぜ酢飯にすることで今までの発酵させるなどの手間がなくなりコストダウンが可能になったのです。
さらに与兵衛は味にインパクトを加えたかったのか殺菌効果を狙ってなのかは分かりませんが酢飯とネタの間にワサビを入れることを思いつきます。与兵衛が工夫したのは味だけではなく、その大きさにも工夫しました。ここには当時の江戸の情勢が関わっています。
当時の江戸は人口100万人の世界最大の都市でした。同じ頃のロンドン約70万人、パリ約50万人と比較すると圧倒的に人口が多いのが分かります。この理由として三代将軍徳川家光が作った参勤交代で殿様について江戸に滞在する侍達や現代人と同じように仕事にありつけると考えて江戸へ行く人たちが多かったことが人口の多さと深く関わっていると思います。
・火事と喧嘩は江戸の華
人口の多さには「火事」も関わっています。当時は木造建築ばかりでしたので江戸では現代では考えられないほどに火事が頻発していました。統計では100回近く大火があったと言われ、江戸の三大大火として明暦の大火、明和の大火、文化の大火が有名ですね。火事は江戸の人たちにとっては日常茶飯事でした。そして火事が起こると当然必要になるのが大工達でした。
江戸にはこのように単身赴任の侍や大工達が多く江戸の人口の半分以上が男だったと言われています。ここもやはり現代と変わらないですが、独り身の男は自炊をあまりせず外食が多くなります。やっぱりササっと食べられるものがいいですよね。ここに与兵衛は目をつけました。与兵衛は従来の寿司とは違い大き過ぎず小さ過ぎない手の平サイズに変更し手軽に食べられるようにしました。
こうして与兵衛の工夫と努力によってできた握り寿司は江戸っ子に大人気になり、握り寿司を扱う寿司屋も次第に増え江戸中で食べられるようになっていきました。
・天保の改革による危機
江戸で人気になった握り寿司に危機が訪れます。江戸幕府による「天保の改革」です。天保の改革は老中・水野忠邦の主導で行われた改革です。なぜ寿司屋に危機に陥ったかというと、江戸中にできた寿司屋では他の寿司屋に負けないよう見栄えの派手さに力を入れている店が多く競い合いが起きており、これが贅沢だと見なされ幕府から見なされ取り締まりを受ける事になってしまったのです。
天保の改革よって捕まった寿司職人は200人ほどいたと言われ、与兵衛も捕縛され手鎖の刑にされました。これにより江戸の町から握り寿司が消えることになってしまいました。
水野忠邦
・握り寿司の復活
天保の改革によって江戸の町から消えた握り寿司に復活の時が来ます。強硬な政策が人々からの反発を招き、改革を主導していた水野忠邦が失脚したのです。これにより江戸の町で再び握り寿司が復活し、至る所で食べられるようになりました。その後も江戸生まれの握り寿司は愛され明治・大正・昭和・平成・令和に至る現代まで進化を続け日本人のソウルフードとして食べられ続けています。
華屋与兵衛の努力と工夫、ピンチからの復活。この歴史を知ったら寿司の見方が変わってきてより一層寿司を楽しめそうですね。