新しい鞄が欲しかった話
流行病が幾分落ち着いて、在宅勤務が減りつつある今日この頃。通勤時にパソコンを持ち運ぶ必要がなくなってきたため、でっかいリュックを背負って会社に行くのが唐突にダルくなった。
今日は出社、明日は在宅…といった不定期的にパソコンの持ち運びがある頃はリュック通勤が妥当であった。薄型ノートPCとはいえ充電器やらマウスやらを含めるとトートバッグでは許せない重さである。
そんな邪魔者を会社に置き去りにできるのだから身軽で秋服にも合うようなベリーキュートな鞄が欲しくなったのだ。
私はアホなので通販をてきとうに物色し、かわいく写真の撮られた安い鞄を発見し、これでオッケー!と、元気に注文ボタンを押した。
後日届いた鞄を見て私は唸った。思ってたほどかわいくないのである。きっと通販ページに掲載された写真はさぞ腕の良いカメラマンが撮ったのであろう。写真からは感じられなかった生地の安っぽさが、私の腕の中で爆発していた。
さらに愚かなことに私は届いた瞬間タグを取ってしまったため難癖をつけて返品することも不可能となった。もうなにもかもおしまいである。
今日からお前は私の相棒である。可哀想に。
大学生時代に父親からちょっといい鞄を貰ったことがある。カジュアルにもお上品にも使えたそれは、学生時代から就活、社会人初期に至るまで大活躍した。
見た目もシンプルで容量もあって、余計なポケットなどが少なかったため私のニーズのど真ん中だったその鞄は、取っ手の付け根部分が引き千切れんばかりにまで酷使され引退した。今思えば出先で千切れる前に気づいて良かった。新たなる伝説を産むところであった。
お気に入りの鞄を引退まで酷使した経験は、貧乏性な私の中でひとつの概念を与えるに至った。
よく、安物買いの銭失いという。これは「安いものを買うと長持ちせず、結局安いものをいくつも買うハメになり、かえって損をする」といった感じの言葉だと私は解釈している。
しかし、私が別れを経験した鞄は決して安物ではなかった。私は小学生男児のランドセルのような使い方もしなかった。それでも鞄は使い古され引退したのである。
使用頻度が高いものであれば、高い安いにかかわらず平等に別れが訪れるので、高くても安くても自由にお気に入りを選べば良いのだなと思ったのである。「自分のお気に入り」という基準をもとに、ものの価値は自分で決められる。そう思った。
そんな別れから幾星霜たってのコレである。
日々大なり小なり経験する「安物買いの銭失い」のなかでも特別インパクトのある安物に出会ってしまった。安いから良いのであるがそういう問題ではない。安物買いの銭失いにあたる商品はファーストインプレッションがレベチなのであった。プチプラを軽やかに使いこなす、といった次元を越えるのである。
世の中のプチプラの中には良いものもあるが、安いものを買うということは、ヤベエやつに遭遇する確率が上がるということなのである。
銭失いしたくなければ最初からそこそこの値段のもののなかから選ぶべきなのである。
というか深夜にノリで通販サイトを見るのはやめたほうがいいというのが、宇宙の真理である。