忘れたい記憶の話
忘れたい記憶を思い出す陰鬱な日がたまにある。
あれはもう何十年と前のこと。小2か3の頃だったと思う。家の近所で友達と遊んでいたらどこからともなく足元に小さい子猫が擦り寄ってきた。捨て猫か迷い猫か今では分からない。首輪はしていなかった。縞模様というか灰色というか、手足とお腹は白かった。
戸惑いながらも遊びたい盛りだった我々は猫を庭に迎え入れ可愛がった。
よく分からんまま牛乳を少しだけ皿に注ぎ与えた。今思えば牛乳は猫のお腹には良くないかもしれないが、子猫は喜んで牛乳を飲んだ。
その時家に親は不在だった。私は電話で猫を拾ったんだけど飼えないかなとパートの母に聞いて、確か断られた気がする。どのように子猫を追い出したのかは記憶にない。
それから数時間か数日経ったのかも記憶が無いが、雨上がりで湿った道路の片隅で丸まってる子猫を見つけた。濡れ鼠のような子猫は動かず、あろう事か私はこの手で子猫の首根っこを掴んだ。なおも子猫は動かず死んでいることに納得をした。
眠るように綺麗だったが、車にはねられたのだろう。
一緒にいた友達と「死んじゃってるね」「うん」といった会話をした気がする。
次にその道を通った時には子猫の死体は処理されたのか消えていた。
そこで子猫に関する全ての記憶は終わる。
飼えなかった子猫の死体を見つけるだなんてバッドエンドすぎる。それも低学年の小学生がだ。健全でない。道徳的でない。
幸い私はその記憶によってトラウマになったとか、逆に変な趣味や性癖に目覚めるなどといったことはないまま概ね普通の大人になった。
でもきっとこの記憶は私の深層心理から私を冒していると思う。無自覚に私を変え続けていると思う。そうでなかったら何十年と経った今も覚えている理由がない。そうでなかったらあの存在はなんだったと言うのか。私も当時一緒にいた子も、この一件をきっかけに動物の医者を志したということもない。保護猫を守る活動に傾倒したこともない。ただの日常の出来事、生物の儚さ、無常、後悔、無情。
幼かったあの頃の私達は子猫にとって束の間の安らぎになっただろうか、などと願うことしかできない。誰も何も救われない。
こんな記憶なんてない方が良かったと私はずっと思っている。