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虚像を提供するという行為について

金曜日、17:52。

私はニューオータニのロビー階にあるカフェ「satsuki」を飛び出した。さっきまで話していた客Aはまだ会計に並んでいるのだが。何度も謝ってからその場を離れる。客Aは「大丈夫だよ、行きな」と笑顔で手を振る。

私は後ろを振り返って車寄せが死角になっていることを確認してから、タクシーの後部座席に滑り込んだ。

「アンダーズまでお願いします」

運転手は私が急いでいることを察したのか、無駄のない動きで車を発進させた。私はスマホを出してすぐ客Bにメッセージを送る。
「お疲れ様です。向かっています。すみません、道が混んでいて5分程度遅れてしまいそうです」そして化粧を直すためにクッションファンデを手にとる。最近のお気に入りはローラメルシェだ。ちょうどいいツヤが出る。日中暑かった割にはそこまで崩れていない。

客Aの顔がふと脳裏に蘇る。あの、冬眠明けの熊みたいなおじさん。いい人だ。頭の良さそうな人。あとで今日の会話を整理しないといけない。あんな風に置いてきてしまったアフターフォローも必要だ。時間配分が全然なってなかった。反省。というかそもそもスケジュールに無理があったのだ。

でもそれは後。今は客Bに集中しないと。

と、ここで客Bから「ごゆっくり」と返事が来た。
そんなのは嘘だ。この人は私の50倍くらい忙しいのだ。今日は相場も荒れに荒れた。そんな中時間を作って私に会いに来ている。「ごゆっくり」でいいわけがないのだ。ぜんぜん。


***

道は本当に混んでいた。
私は極度のストレスに血圧が急上昇するのを感じながら車を飛び出し、エレベーターに乗り込んだ。OK、51階。18:03。音もなく上昇する箱の中、呼吸を整える。

「お待たせしました」

ソファでスマホを覗き込んでいる客Bに駆け寄って声をかける。周囲に気づかないほど熱心にチャートを見ている。こちらに向けた顔はやや疲れている。やはり散々だったのだろう。

「大丈夫、行こうか」

いつもながらパリッとしたジャストサイズのスーツを着た客B。全てオーダー品らしい。さっきまで会っていた客Aとは全く異なるオーラを持つ人だ。背中から闘志のようなものが滲み出ている。まるで湯気みたいに。

席に着くと客Bは大きく息をついた。そしてまだ鋭さの残る目で私を見た。
「どう、元気?」

私は無言で頷いたあと、「Bさんはお忙しかったんじゃないですか」と返した。この人は今私の話を聞きたいんじゃない。自分の話を聞いて欲しいのだ。

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