「世界観とは何か?」<連載08 なぜ人は「世界観」を求めるのか?②>
前回、世界観は生物として勝手に備わるものでありつつ、それがあることによって判断が的確になるという機能的な側面を話しました。
人間の判断というものは、動物的な判断(本能)に加えて、社会的な学習や規範(ルール)によって決まります。
自分の欲求だけで全てを選択しているわけではなく、周りの反応や自分の行動が起こした結果が、外部世界にこだました後、どう自分に返ってくるかなども含めて判断しています。
「世界観」とは、まさにその自分の外側の世界が、どのようであるかをまとめたものなわけですが、同じ「私」でも、時々の状態によっても変わります。
つまり、10歳の世界観と20歳の世界観では、自分が取り得る行動の範囲が違い、世界をどのように見ているか違うのは当然です。それは年収300万と年収3000万でも同様ですし、当然、国が違えば、宗教が違えば、それぞれ世界観は異なってくるわけです。
多くの場合は社会のルールを前提にしながら、より自分の環境に合わせたカスタマイズした世界観が常に自動更新され、それをベースに日々選択が繰り返されているのです。
世界観とは結果として、勝手に自分の中に作り上げられるものでもありますが、自分の行動が失敗しないために、世界観を的確に持つ必要があるという意味では、外側の世界観をうまく取り込んで自分の世界観を的確に更新する必要もあります。
歴史や文化を学ぶということはその良い例ですが、犬が何か匂いを感じると、それを放っておけないのと同じで、人間も何か未知なものには自然と興味が沸きます。放っておけないというのが正しいかもしれません。
未知であることはリスクでもあるため、それがリスクではないと明らかにするために、可能であれば、既知なものに分解し、どうしても危険なものは攻撃して潰すか、距離を取るのが本能的な働きなのでしょう。人間は、その時々の状況に対して、自分の世界観と記憶に照らし合わせて、最も合理的な判断をするのです。
上記話してきたことは、ごく当たり前のことではあり、世界観ということ言葉を持ち出さずとも、原理としては捉えられている事象だと思うのですが、世界観というものを、人間の第一階層に置いた場合、「人が世界観を求めるのは自分の世界観を更新したいから」とさえ言えるのではないか、というのが私の考えです。
次回はもう少しこの話を掘り下げていきます。