降雪よりも保証されない大人
子供の頃、初めて米をといだ。
それは恐らく僕にとって最古の記憶の一つで、母の手伝いがありながらも小さな手を冷たい水と米に浸して、じゃぶじゃぶと一生懸命にといで、とぎ汁を流して、力加減が出来ずに沢山のお米をとぎ汁とともにこぼした。
当時はわずか三歳だとか四歳であったから、米をとぐにあたっての水の抵抗すらがひたすらに重く、とぎ汁を捨てる為に自力で釜を持つことさえ困難である。裕福とは全く言い難い家庭であったけれど、その頃の僕には自覚が無い。しかしそれでも、シンクに広がる真っ白な米を見た時の、肌を怖気がなぞるような冷ややかな罪悪感を、今でも鮮やかに記憶している。
何にせよ、その経験は僕にとって非常に貴重なものであった。
米をといでいた時ですらこれは大変なことだと思っていたし、米をシンクにぶちまけた瞬間の無力感は、こうして文字に起こせるほど未だに脳に刻み込まれている。そこで初めて“自身は子供”なのだと強い自覚を得たし、これを当たり前に、悠々にこなしてしまう大人は凄いものなのだと思い至ったものである。
もっとも、若くで僕を産んだ母はその当時ではまだ19歳とか20歳であるから、今思えば大人と形容するには母もまた、手探りだったに違いないのだけれど。
これは大人になって気付いた事だが、子供である時分には一つ、無意識に感じている事があった。それはまさに、“大人は保証されている”し、“保証してくれる”と言うことだ。
米をこぼしてから数年も後の事だけれど、叔父に肩車をしてもらったことがある。
夜中の神社でカブト虫やクワガタ虫を取りに行き、懐中電灯を持ち、肩車で暗い木々の間を散策した。
夏の湿り気と夜の空気、そして湿潤な木々と甲虫の香りは、それが鼻腔を通るたび、今に至っても夏を想起させる、根幹の体験を作った。
また、父親にも持ち上げられたことがある。
橋の欄干を隔て、川の上。腕だけを伸ばし、父が手を離せば僕は川へと落下する。大人ながらに意地悪の域を越えて、恐がる子供を見て楽しんでいたのだろう。キュートアグレッションとはまさにこの事であるが、言うに及ばないけれど、当人にとってはただただシンプルに恐怖体験そのものである。
それでも、“保証”があると感じていた。もっと具体的に言えば、“大人は失敗をしない”のだろうと、考えないまでも感じていた。
例えば叔父も、肩車をしている最中に突然走り出すなどの意地悪をしたが、こちらがしっかり掴むなどの努力を怠らなければ決して僕を地面に落としてしまうことないだろうと考えていた。
父は信じられない程の冗談で僕を空中遊歩させたけれど、如何に恐怖を感じようとも決して僕を落としてしまうことはないだろうと考えていた。
母は当然のように米をとぎ、炊いて、ささやかに家事をし、仕事へ行く。それは当然のことで、そこに間違いはなく、どのタスクも、どのルーティンも、毎度滞りなく、狂いなく、ひとつの失敗も無いまま確実に遂行されるものだと考えていた。
だからあの時の僕は、自身が大人になれば一人で米がとげるようになると考えたのだ。そしてそれは間違いの無いものだと感じていた。
大人になれば子供を肩車しても絶対に落とさないし、脅かす為に危険な事をしても事故は起きないし、毎日米をといで、炊いて、食事を作る事に失敗などしない。間違えて誰かに怪我をさせることなど有り得ない。
大人とはそう言うものだと、そう言うふうになれるのだと、そのような“保証”が自動的に得られるのだと、漠然と感じ、勝手に信じ込んでいたのだ。
むろん結果的に言えば、その考えに自覚的になった時、その瞬間にはもう、そんなありもしない幻想は霧散したと言っていいだろう。
何となくそう思っていたことに気付いたのと全く同時に、そんな訳はなかったなと理解する。そこに感慨などは無く、感情も無く、ただ気付き、自身の当たり前の一部になった。
考えてみればそれが、一つ大人になったと形容すべき階段……あるいは勾配だったのかもしれない。
結局その学びは無味無臭であったから、きっとその他多くの学びと変わらぬ程度の小さな勾配に過ぎなかったのだろうけれど。
過ぎて当たり前の経験など、考えても栓のないことである。
さて、実際のところこれは、こうも冗長に語る話でもない。オチも無ければまとめる必要も無いのだ。
現実、大人に“保証”など存在しない。どれだけ誠実に生きても、どれだけ注意を払っても、失敗なんてする時はする。
悲しいことにこの世界には、肩車をされていたら落下してしまい怪我をしてしまった幼児など沢山いるだろうし、冗談とは言え子供を橋から落とす真似をするなど、現代では考えられない程愚かな行為だ。人によってはそれ自体が失敗と呼んでしまって差し支えないだろう。
知人には大人になっても米のとぎ方、炊き方を知らぬ者も居たし、料理も仕事も失敗の連続である。
そうだ。幼い僕が感じた“成長すれば勝手に得られるはずの保証”は端から何処にも存在せず、この世界は不条理で満ち溢れていた。“絶対できる”ことの数など大人になってもたかが知れていて、肩車の一つをとっても危険が伴う。世界はそんなふうに出来ているのだ。
大人になって僕が住む地域には、毎年雪が降る。これはほぼ確実と言っていいもので、降らなければそれはきっと大事になるに違いない。それほどまでにほとんど、絶対に、毎年雪は降るのである。
だから雪が好きな僕にとって、その雪が姿を潜める春には一抹の寂しさを覚えるけれど、それでも雪は、数ヶ月経てばまた降るだろう。寒い時期にはまた、降ってくれる。これはこの世界においても数少ない、ささやかな“保証”された事実である。
不条理と不合理に満ち、思いのほか“保証”されない大人なんかよりずっと、決定的で安心に満ちた“保証”。
だから僕があの頃の僕に“保証”できるのは、数ヶ月経てばまたこんこんと降るであろう白い雪と、あの汚いシンクにはもう、雪を積もらせないことくらいのものだ。
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