如才のない男

 気付いてみたら予定の時間ギリギリだったり、この暑いのに重い荷物を二回に分けて運ばなくてはいけなかったり、昼食も摂れないまま何か飲まないと死ぬと思ったので、体を冷やす目的もあり、近場のスーパーに入った。

 この後もすぐに休めそうにはないので多めに買っておくか、炭酸かお茶か、などと悩んでいると、背後のパン売り場で店員の男女が話し始めた。そこで作業をしていた中年女性の方が、昼休憩でパンを買いに来た若い男性に話しかけたようだった。何かしきりに謝っている。どうやら女性の連絡ミスか何かで、男性が急に出勤しなくてはならなくなったことがあったような旨の内容だった。気になったので移動するフリをして少し背後に目をやると、パートのおばさんと学生のバイトぐらいの関係性が見て取れる。

 そのバイトはマスクで表情は見えないものの、にこやかな声で「いやいや全然全然、むしろ稼ぎたかったんで」と眼前で手を横に振る。個人的に「全然」が繰り返される時は逆に全然ではないと思っていたが、彼の二回は本当に全然だから繰り返したように聞こえた。

 それでも頭を下げようとするおばさんに、彼は「いやうちの母親なんてね」と、かつて自分の母親が授業参観日の日付を1日間違えて、前日にバリバリに決め込んだ服装で自信満々に授業中に入ってきたというエピソードトークを1分ぐらいでまとめてパパッと話し、一笑い起こしてから「んじゃっす!」みたいなことを言って休憩に出ていった。

 彼の後ろ姿を見つめながら俺は思った。こ、こいつ、如才がねえ。あまりに如才がねえ。どこで習ったんだそれ。

 謝られ続けるのをパシッと断ち切るのは意外と難しいもので、全然怒っていないのにまだ悪感情が残っているように思われてしまうことも多々あるものだ。しかもマスクをつけた状態で表情が半分塞がっていれば尚更なのだが、彼は母親という自分側の人間を下げるトークを繰り広げたことでおばさんの罪悪感を緩和し、同時に「ミスをした」という内容を選ぶことで謝罪を受け入れていることを軽妙に表現してみせた。更に仕事中であることを考えても、会話のスタートから2分程度でそれらを完ぺきにやり遂げたのだ。

 いくら払っても完璧に身につけることは難しいテクニックの数々。頼むからお母さんのエピソードだけは真実であってくれと思った。もしそれすら彼がその場で作り上げた一番ハマるエピソードだとしたら、若くしてそれほどまでの如才のなさを示してみせた人間がこれから何をするのか、俺は怖くて仕方がないからだ。モテるとかかっこいいとか世渡り上手とか、そういう分類とは一線を画した領域――如才ねえ。あいつマジで如才なかったわ。


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