『吐きそうだ』って曲聞いたんだけど…
『吐きそうだ』って曲聞いたんだけどさあ…
ああ、この曲が一番好きかもしれない(定期)。
先に言っておくが、今流行りの『うっせえわ』とは何の関係性もない。
『生きる意味とは何だ 寝起き一杯のコーヒーくらいのもんか』。出だしからボディに効くパンチライン。これが秋田氏の口からでなければ、「何言ってんだこの人」と思うだろう。やはりどの口が何を言うかはかなり重要みたいだ。これだけ生に縛られた曲を、歌いに歌ってきた彼があえて生きる意味を「寝起き一杯のコーヒー」と表現した。考え抜いた挙句、表現しうる限りの最小単位まで落とし込んだ死生観が、かえって私を身震いさせる。
この曲に思い入れがあるのは私がこのころ入院していたからだ。なんてことはない扁桃腺摘出手術というものだ。とはいえ大学生にとって10日間の入院は貴重な時間だ。外の世界で自由に動けるのがなんて幸せなんだとその時初めて思った。一方で高いお金を払い、痛い思いをして扁桃腺をとってまで生き永らえたいかというのにも違和感があった。私はあまり生に執着心がないので、明日死のうが、10年後死のうが特に大差はないと思っている。だからこそ秋田氏の死生観に興味がある。『何度も僕は僕を殺し 血まみれの僕未だ在住心に』。なんてことだ。私も今まで何度も自分を殺してきたが、血まみれのまま心にまだいるというのだ。まさに心の中の僕との闘い。エヴァンゲリオンを彷彿させる。『自分の価値観を自分で言い負かし』。そう。世間と折り合いをつけたいが故に、我々は時に自分のアイデアを握りつぶす。『つまり犯人は僕自身なのだ っていうのはもう何度目のオチだ』。さっきの話は撤回しよう。実は前向きに死を受け入れているわけじゃない。本当は向き合うのが怖いのだ。誰も答えを知らないものに向き合うのは無駄であり苦痛であり恐怖である。そして秋田氏は言う。都合の良いつじつまを作り上げる犯人は僕自身にある、と。そして我々はわかっていながらも何度もその過ちを繰り返す。私はこういったとき「ああ。人間も動物なのだな」と改めて実感する。
『愚直な自尊心が現実に跪いた』『口をつく恨み節 確かによく切れたな』これだけ引用する時点で察してほしい。この曲はトッポよりも中身が詰まっている。自尊心と現実が共存しているかのような演出。自尊心<現実。恨み節に切れたという表現をあてがう。愚直な自尊心も口をつく恨み節も生きていく上では悪くはないことだと思う。自己表現の一種だ。一方で、上記のような歪曲的な表現を使うことで、自分を戒める皮肉に聞こえる。いやはや、日本語の美学に対面している。『それなら自分が一番かわいいんだと 言って見せろよこの獣どもが』。1番でつかった「獣」というワードを2番で繰り返すのもたまらない。そしてこれは誰に放っているのか。私なのではないかとドキリとする(Mではない)。人間とはいかに生々しく白々しいか。一枚一枚メッキをはがすように、秋田氏によって解体されていく。時に別の曲で秋田氏は「人間も社会性を失ったらただの獣」のような表現をされていた。秋田氏自身も人間固有の特異性とは何か、果たして生態系において人間はどれほど高尚であるのか、はたまたそれはエゴなのか、過大評価なのか、そもそも我々は何なのだろうか…。こういったことを日々考えているのだろう。『後悔はないという後悔を引きずり重い足を歩かせる』後悔はないという後悔。これは自分の価値観を自分で言い負かしと同じ匂いがする。『愚痴はこぼすな 弱音は吐くな』珍しくポジティブな発言だ。と、思いきや秋田氏がこのような発言をするときは決まって皮肉。『優しくあれ義理堅く恩は返せ借りは作るな 無償の愛だ 無償の愛か? これこそがエゴだ なんて嫌な奴だ』この畳みかけは素晴らしい。もう口から感嘆詞しかでない。ここは最後のサビのための盛り上げ役だ。秋田氏はここまで厳しく辛辣なことを言う。いや、当たり前の事だが、きっとamazarashiファンにとっては耳をふさぎたくなるような言葉の雨だ。無償の愛。いいじゃないかと思う。しかし、誰かのためなることをした気になって満足しているのはエゴでしかない。結局すべて自分のために行動しているのだ。しかし、しかしだよ。普通人はこんな厭味ったらしいことまで考えて動かない。心の底から相手のためを思って身銭を切る人もいる。だからこそ勘繰るのは「嫌な奴」のすることだという。まるで自分が心に二人も三人もいるようだ。血まみれの僕未だ在住心に、だ。
そして曲はサビに戻る。結局生きるとはコーヒー一杯の価値なのか。わからない。とにかく今わかっているのは二日酔いで吐きそうってことぐらいなんだ。
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