『ポルノ映画の看板の下で』って曲なんだけど…
『ポルノ映画の看板の下で』って曲なんだけどさあ…..............................................淡い!まず、この90年代を感じさせる世界観!渋い&哀愁&ノスタルジック。
『古びた団地の影が伸びる』、『荒れ果てた花壇の見込む』『子供がペンで書いた墓標』ここまでで大方の姿が見えてくる。湿っぽいスタートだ。その中でも普通「墓標」のようなワードを馴染ませるあたりが巧妙である。『風来のカラス水遊び』『タクシー会社の駐車場』一見無関係な文脈を置いているだけのように見えるが、秋田氏目線の風景なのだろうか、第3者が介入していることは確かだ。そして1節も無駄がない。風景画のみで小節を組み立て、どう転ぶのかをリスナーの予測させない展開が面白い。そして間奏を挟んで、一気に一人称視点が流れこんでくる。この視点トリックも実に味がある!『つらいつらいとはよく言うが 苦悩で死んだ試しはなし』この笑っていいのかよくわからないシリアスな序文。苦悩で死んだ試しはねえなw確かにw
『生きてくのが面倒なら 死んじまうのも面倒だ』うーーん。普通のことを言っているのに共感のスタンディングオベーションが鳴りやまない。
サビの『ポルノ映画の看板の下でずっとだれか待ってる女の子』この1文は最高だ。「なぜポルノ映画の看板の下なの?」「誰を待っているの?」くう~、秋田氏の十八番、読者の想像にお任せパターンだ。『ふざけた日常 マフラー代わりにしても』これ!この類の表現がとても好き。技法ならぬ擬法ですよね。言葉遊び。ザ世界観。そして「才能不在」で締めくくるバッドエンドもよりディープさを加速させる。そして2番はどういうコンセプトで攻めて来るのか。「桜が散って綺麗だからと人生に例えてしまうほどの人波のロマンチシズムなら私も持ち合わせていますが」なるほど。この皮肉は素晴らしい。たったこの1文だけで、自分がひねくれ具合を象徴できてしまう。「これが鬱と気付いてりゃ世話ねえ」までの運びも美しい。「前向くのが面倒なら~」は1番との並行構成だが、より日常化している。まさに私の弟が鬱なのだが、眠るのすら面倒なので、朝9時ごろ生理的眠気がきたら寝ると語っていた。このように現実味を帯びた生々しい表現が内容を凝縮していく。経験則によるものだろうか。
繰り返しのサビ。「ふざけた思い出を ピアスにして飾っても」かー。ここも擬法が映える映える。
その先をお聞きいただいただろうか。「諦めの果てに流した血の赤 故郷の空の赤 炎上する死地の赤」誰がこの3つを平行に語れるだろうか。いや語れまい(反語)。すべて異なる垢だが、同じ赤だ。そして痛々しい。全ての赤がそれぞれの痛々しさを表す。
最後のサビも女の子は誰かを待っている。しかし、1番のサビと印象が異なる気がするのはなぜだろう。やはり曲の前半を聞いてからのサビと、すべてを聞いた後のサビは同じ表現でも重みや在り方が異なる。なので繰り返し表現が飽きないのだ。いやむしろもう一回繰り返してはくれまいか。私も才能不在の一人だがこのブログを書く。ふざけた希望を後ろの花瓶に差して。
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