#125 日波友好秘話
18世紀に消滅したポーランドは、100年に渡る独立運動と民衆蜂起にもかかわらず、ドイツやロシアから強い支配を受け続けていました。1919年、1世紀の時を経て、ポーランドが念願の独立を果たした時、シベリアには政治犯として捕らえられたり、戦乱を逃れて東へ向かった十数万人のポーランド人がいました。飢餓と疫病により多くの孤児が生じており、生活は限界に近づいていました。
同年9月、ウラジオストク在住のポーランド人たちが、シベリア鉄道で孤児たちをポーランドに送る救援計画を立てました。しかし翌年1920年、ポーランドとソビエトが開戦し、シベリア鉄道の利用が不可能となってしまったのです。
多くのヨーロッパ諸国が彼らを見放す中、態度が違ったのは、日本外務省でした。請願に訪れたウラジオストクのポーランド人たちの話を聞き入れ、17日後、日本赤十字社がシベリア孤児救済を行うことが決定されました。決定から2週間後、56名の孤児が東京に到着し、1922年夏までに、計765名の孤児が日本で治療・休養の後、ポーランドへ送られました。
健康状態が危機的な子供もいて、困難な仕事でした、腸チフスの子供を懸命に看護した看護婦が殉職しています。民間の関心も引き、無料の歯科治療や慰問や寄付の申し出が絶えなかったといいます。
横浜港や神戸港では、多くの子供が日本を離れることを泣いて悲しみました。彼らはポーランドに帰国してからも、日本に到着すると衣類は熱湯で消毒され、浴衣の袖の中に飴やお菓子をたっぷり入れてもらって大喜びしたこと、帰国の際の船内で、日本人船長が毎晩、巡回して毛布を首まで掛けてくれたことなど、日本の思い出をずっと忘れずにいました。
こうしてポーランドに帰った子供たちの一人、イエジ・ストシャウコフスキは、17歳のときに極東青年会を結成。640名の会員と日本との親善活動を行いました。1939年、ポーランドはナチス・ドイツの侵攻を受けます。イエジは、極東青年会幹部を緊急招集し、レジスタンス運動参加を決定。運動には孤児など1万数千名のポーランド人が参加しました。
しかし、ある日、レジスタンスの隠れ家であった孤児院が感づかれ、ドイツ兵たちが強制捜査を始めてしまいます。知らせを受けて駆けつけた日本大使館の職員は、孤児院は日本大使館のものだと言い張り、ドイツ兵を追い返そうとします。なかなかドイツ兵が納得しないので、「君たち、日本の歌を歌って聞かせてやってくれ」と言うと、孤児たちは親善活動で覚えた歌を合唱。同盟国である日本の施設を勝手に荒らすわけにもいかず、ドイツ兵たちは仕方なく去っていきました。
第二次世界大戦で、全ポーランド人の20%近くの人々が命を落としました。その中でも、日本人はポーランド人を守ろうとしたのです。日本人がポーランド人に親切にしたのは、日露戦争や、ドイツとの駆け引きの結果の産物にすぎなかったのかもしれません。それはポーランド人もよく承知しています。しかし、そんな歴史のいたずらの中で、ポーランド人をもっとも真剣に思う立場にあったのは日本人だったという事実には変わりありません。
感謝状があります。
「何時までも恩を忘れない国民である」との言葉は、シベリア孤児救出から75年後、日本で阪神大震災が起きた時に実証されました。震災の年、その翌年と、被災児童たち50人がポーランドに招かれました。大震災で傷ついた子どもたちの心を癒すことを目的に、ポーランド各地の自治体の協力で、交流やホームステイが行なわれました。反響は大きく、企業や資産家、芸術家をはじめ個人からも寄付や協力の申し出が相次いだそうです。
日本の被災児たちは4人の元シベリア孤児と対面しています。元シベリア孤児を代表して挨拶したのは、兄弟で救出された男性でした。
4名のシベリア孤児が涙ながらに薔薇の花を、震災孤児1人1人に手渡した時には、会場は万雷の拍手に包まれました。75年前の我々の父祖が「地球の反対側」から来たシベリア孤児たちを慈しんだ大和心に、恩を決して忘れないポーランド魂がお返しできたといっていました。
このシベリアのポーランド孤児救済の逸話はポーランドではかなり有名な話だと言います。それゆえにポーランドが親日国(小学校では折り紙を習うと聞きました)だということは、残念ながら日本ではあまり知られていません。2019年は日本ポーランド国交樹立100周年だったのに、日本での報道はごくわずかで、ポーランドとの温度差があったのはとても悲しいことでした。
戦前戦中の日本政府や外務省の職員は一貫して『義』に従って行動していたのだと思います。仲間だとか敵だとかではなくて『義』を通す。とても誇らしい事だと私は思います。でも最近の日本人はそういう価値判断/行動基準は少なくなっているように感じているのが残念です。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。