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#68 正解ばかり求める授業だけでなく

 日本人は、たいていの人がそうだと思いますが、会議や講演会など大勢の人々の前で自分の意見を言うのが苦手です。苦手というかわざわざ人前で話そうとしないものです。司会者や講演者が聴衆に問いかけても、会場がシラーッとして誰も答えません。これ、日本中、どこの会場でもたいてい同じ反応です。

 授業中に先生が「分かる人?」と質問したとき、なぜ誰も答えないのでしょうか。なぜ誰も手を挙げないのでしょうか。ここに日本の授業の本質が隠れているように私は思います。どういうことか、今タネ明かしをします。
 なぜ授業中に多くの子どもたちが何も答えず、誰も手を挙げないのかと言うと、日本人の子どもたちの学力が低いからでしょうか?そうではないと思います。おそらく問い掛けられた瞬間、「こんなのどうかな?」みたいなアイデアが頭の片隅にみんなちょっとひらめいているのではないかと思います。
 ところが日本人の場合、「分かる人?」と問われると、正解が思い浮かばないと答えないのです。あるいは思い浮かんだ正解を起承転結をはっきりさせて完璧に表現できる「自信がない」と答えないのです。違うでしょうか?
 

 これは万国共通の現象ではありません。日本だけで起こる現象です。

 私はかつてヨーロッパのある国と南米のある国の現地校の参観を複数にわたり行ったことがありましたが、日本の低学年の教室のようでした。

 小学校の1、2年の教室に行くと、先生が何か問い掛けたら、けっこう子どもたちはうるさいくらい反応します。「先生、私、昨日ね…」みたいな感じで、答えと関係ないことまでも平気で発言する子ってよくいますよね。
 それが小学校3年生くらいになると、先生もそういう子どもをいちいち相手にしていたら授業が進まないので、「ちょっと黙っていなさい」とか、「みんなが聞きたいことだけ言いなさい」とか言う。つまり「正解を答えてほしい」と、このように子どもを飼い慣らしていくわけです。誤解しないでください。先生を批判しているわけではありません。そうしないと授業が進まないからです。
 でも、大人になって社会に入ってみると、正解が一つではない問題ってたくさんありますよね。だから、どんなに稚拙でもいいから自分の意見を言えることが大事です。そうすると、人が言った意見に対して、違った意見が出てきます。意見が繋がっていくのです。それを繰り返していくと、最初の稚拙な意見が他の人の意見によってどんどん修正されていって、1時間後にはかなり立派な意見になってきます。これは指導要領の目指している「深い学び」に直結する思考活動だと私は思います。ですから、日本の子どもたちを「正解を答えなければいけない」といった呪縛から解放して、「正解じゃなくてもいいんだよ」と教えていかないといけないと思うのです。

 誤解しないでください。もちろん算数の「1+1=2」みたいに正解の出し方を徹底して教えなければならない授業は、それはそれでいいのです。ただ私がいいたいのは、授業が「先生が知っている正解」をいつも子どもたちに求めるように展開してしまうのがよくないと言いたいのです。

 子どもたちが人生で直面する就職活動にしても、結婚にしても、人生の中で一つしかない正解を求めていったら、もう前に進めなくなってしまうと思います。正解なんてあるわけないのですから。(また逆に言うとどんな道に進んでも全てが正解のこともあると思います)だから、「正解ばかりを問う」のではなく、子どもたちの「思考の過程」にスポットを当てて「考えることの楽しさ」をもっと味合わせていかないといけないと思うわけです。

 余談ですがアメリカでは、その分野の常識を知らない素人をわざわざ会議に加えて、自由に発言してもらうという手法があるそうです。「オッドマンODOMAN(その場の常識を知らない半端者)」と言うそうですが、バカなことをどんどん発言してもらい、発想を広げていくのです。こんな授業があったら、子どもたちは楽しいでしょうね。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


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