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#84 学校にとってお客は?

 昔、歌手の故・三波春夫が「お客様は神様です」といって、このフレーズが日本の社会の中で定着してきました。はて、お客様は本当に神様なのか?神様にしてしまっていいのか?と私は子どもながらに考えたことがあります。

 もちろん客商売の店やサービス業にとっては、「お客様は神様」というのは何となくうなずけます。でも、その考え方の裏にはお客が店に金を落としてくれるからと言った拝金主義的な考えが見え隠れしています。故・三波春夫が「お客様は神様」といったのはそんな意味ではなく、「歌う時にあたかも神前で祈るときのように、雑念を払って澄み切った心にならなければ完璧な藝をお客に見せすることはできない」といった崇高な姿勢のもとに発した言葉だったのです。

 ところがその後この言葉が日本の社会の中で都合のいいように勝手に意味を変えられて一人歩きしてしまったのだと思います。しかし、百歩譲ってお客を神だとしても、神様であるお客だからといって、店に無理難題を押しつけたり、身勝手なことをしたりしてよいことにはならないと思います。そういう客は神様としてふさわしくない客だと思います。

 では、学校にとってお客は誰でしょうか?

 

 子ども(児童・生徒・学生)でしょうか?

 それとも保護者でしょうか?

 ここはすごく大事なところだと思います。学校に子どもを通わせているのだから、学校にとって自分は大事なお客であると勘違いしているから、そのような保護者が、学校に対して身勝手な要求ができるのです。そのような人は、学校は親にサービスするのが当たり前くらいに思ってしまっているのかもしれません。

 先生の方も、やたら保護者へ平身低頭してしまっていたり、児童・生徒・学生にばか丁寧な敬語を使ってしまったりしているのも、親や子どもに自分たちがお客であるという意識を増長させて、大きな勘違いをさせてしまっている一因であると思います。

 では、学校にとってのお客は誰なのでしょう?

 私は学校にとってのお客は、児童・生徒・学生でもなければ、その保護者でもないと思います。だから学校にとって児童・生徒・学生も、その保護者も神様ではないのです。では、学校にとってのお客は誰なんでしょう。

 私はこう思います。

 児童・生徒・学生をものに例えるのはちょっと乱暴な表現かもしれませんが、学校にとって児童・生徒・学生は「教育をして成長させると言った付加価値」をつけて社会へ送り出す大切な生きた商品だと思います。そして保護者は学校と共に児童・生徒・学生を育てて社会へ送り出す立場であり、学校にとって保護者はいわば子どもを人材に成長させて「社会へ送り出す同志」だと思います。

 だから、学校にとってのお客は「現在から未来に向けての社会」になると思います。

 もしそうであるならば、保護者はお客ではないのだから、学校の同志として子どもを育てるために学校にもっと協力しなくてはいけないはずです。学校は保護者に対して言いにくくても、家庭ですべきことを保護者にお願いしなくてはいけないと思います。学校は学校の使命を自覚した上で、一人一人の先生が子どもを一人前にして社会に出していけるように保護者の協力を得ながら教育していかなくてはいけないと思います。だから学校には保護者に対して「説明責任」があるのだと思います。

 この学校、子ども・保護者、社会の関係を明確にしておかないから、それぞれの立ち位置がはっきりせず、色々なことがブレてきてしまうのだと思います。

 最後までお読みいただき、ありがとうございました。


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