#42 人生を二度生きた男 伊能忠敬
伊藤忠敬とは、
① 大ききんの際、売り物の米を惜しげもなく人々に分け与えた人物
② 一生涯少年の心を持った夢見るスーパー老人
③ 外国の侵略から日本を守った男
そして、日本地図はついでに作ったもの、その真の目的は?
第一の人生
伊能忠敬という名前を千葉県では知らない子どもはいません。なぜなら社会科や道徳で扱われる人物だからです。忠敬と言えば、日本で初めての実測地図を作った人ということは、6年の社会科の教科書に載っています。では、忠敬が日本地図を作るために旅を始めたのはいったい何歳だったでしょうか。なんと56歳からです。それまでは千葉の佐原という町で造り酒屋を営む伊能家の婿(むこ)養子で、商人でした。
ここからはあまり知られていないエピソードです。
元々伊能家はその土地の名家だったのですが、忠敬がお婿さんに入る頃には経営があまりうまくいってなくて倒産寸前だったそうです。
忠敬はどうやって伊能家の経営を立て直していったか。
伊能家は造り酒屋なので、お米を仕入れてお酒を造るとともに、造ったお酒の販売もしていました。忠敬は婿入りしてすぐに従業員を集め、こう言いました。「お客様が来られたら、何かできることがないか聞いてください。もしそれが直接自分たちの商売にならないことであったとしても、お客様のためにしてあげてください。」そう言われた従業員たちは、その日からお客様にこう言いました。「何かお困りのことはありませんか?」するとお客様は、「そう言えば最近、雨漏りがするのよね。」とか「最近、戸の滑りがよくないのよね。」とか言ってきました。すると従業員は、余裕のある時間を見計らって、そのお客様のお宅に行って直してあげました。すると、佐原の町にこういう口コミが広がっていきます。「どうせお酒を買うなら、伊能さんのところがいいわよね」
そうして少しずつ経営が上向いていきました。完全に経営が立ち直るまで10年かかっています。
当時、「天明の大ききん」が起きました。不作が何年も続き、日本全国で餓死者が続出しました。しかし、忠敬の地元・千葉の佐原の町は餓死者が一人も出ませんでした。それは、忠敬が蔵にあった原料のお米を佐原の人々に無償で提供したからでした。
酒屋の経営が順調になると、忠敬は、夜中に家を留守にするようになりました。毎晩出かける忠敬を不審に思った奧さんはある日、こっそり後をつけてみました。すると、忠敬は野原にゴロンと横たわっていました。奥さんは木の陰に隠れてじっと見ていました。でも30分経っても40分経っても、ずっと横たわったままです。奥さんはしびれを切らして、偶然通りかかったようなふりをして近づき、「あら、あなた。こんなところで何をなさっているのですか?」とたずねてみました。
忠敬は言います。「星を見ているのだよ。私は小さい頃から星を見るのが大好きでした。でも、今までは店のことが忙しく夜も仕事に励んでいました。ようやく少し余裕が出てきたので晴れた日にはこうして星を眺めに来ているのです」
どうですか、皆さん。忠敬というと人生後半の日本中を行脚して日本地図を作ったことがあまりにも有名ですが、若い頃は若い頃で仕事ができて、それでいて少年の頃の夢も失っていない美しい心が行動に表れていると思いませんか。その後、奥さんは忠敬を見直し、それからは逆に奥さんのほうから忠敬を誘って夜星を見に出かけたと言われています。
その後、忠敬は50歳になると隠居して、酒屋を息子に継がせて江戸に出ました。
第二の人生
忠敬は江戸の浅草に出て行きました。浅草には「天文方暦局」という、星や月の動きを観測して暦を作る幕府の役所がありました。そこに高橋至時(たかはしよしとき)という当代きっての天文学者がいました。忠敬はその人に弟子入りがしたくて、その門を叩きました。
伊能忠51歳で、19歳も年下だった32歳の天文学者・高橋至時(たかはしよしとき)に頭を下げて弟子入りを志願します。このとき高橋至時は、おそらく「こんな年寄りには無理」と思ったのではないでしょうか。なぜなら天文学の勉強というのは、昼は本を読んで勉強をしないといけません。夜は星や月を観測します。だから若くても大変なのに、50年といわれた江戸時代に忠敬はすでに50過ぎたおじいちゃんですから。それでもお年寄りを冷たく追い返すわけにはいかず、至時は弟子入りを許します。結局、忠敬は他のどんな弟子よりも熱心に研究し、師弟の間には強い絆が生まれていきました。
至時のもとで天文学を学ぶうち、忠敬に一つの夢が生まれます。当時の日本は鎖国していて、オランダと長崎の出島で貿易をしていたので、オランダの書物は入ってきていました。その書物から地球は球体をしているということはわかっていましたが、地球の大きさは未だに世界中の誰もわかっていませんでした。忠敬は自分の手で地球の大きさを計算して出したいと思ったのです。
しかし、当時の日本にはそんな機械はありません。忠敬はどうやって地球の大きさを測ろうと考えたのでしょうか。北極星は常に真北を指していますが、見る場所の緯度が違えば、見上げる角度が変わります。だから、2つの地点から北極星を見上げたときの角度と、その2地点の距離がわかれば地球の大きさが計算できると考えたわけです。でも、その2地点が近すぎたら誤差が大きくなります。1か所は江戸でいい。もう1か所はできるだけ遠くに行って北極星を観測したいと思った忠敬は、当時「蝦夷地」と呼ばれていた北海道に行こうと思いました。ところが、蝦夷地は幕府の直轄領ですから、幕府の許しがないと行けません。幕府に「地球の大きさを計算したい」と言っても許可してくれないだろう。どう言えば許可してくれるかと考えた結果、「そうだ、日本地図を作りたいと言おう」と思いついたのです。
ペリーが浦賀に来る50年ほど前ですが、この当時、すでに「琉球」と呼ばれていた沖縄や北の端の蝦夷地には度々外国船が出没していました。幕府はそのことを知っていましたが、これを公言すると日本中の人々が動揺して大騒ぎになると考え、内緒にしていました。ですから幕府はできれば、蝦夷地の海岸沿いに国防のための施設を造りたいと思っていました。でも、そのためには地図がなかったら何もできません。だから、幕府は地図が喉から手が出るほど欲しかったはずです。そういう時に忠敬が「地図を作りたい」と言ってきたので、幕府は二つ返事で許可しました。
でも、幕府から頼んだわけじゃない。忠敬が作りたいと言ってきたことに対して、幕府が許可を出したということは、どういうことかというと、測量隊を組織して、蝦夷地まで行って帰ってくるまでには莫大な時間と経費がかかります。幕府は許可しただけなので、その費用は、ほとんど出してもらえませんでした。実際に幕府が出したのは2割に満たなかったと言われていて、経費の8割以上は、忠敬が自分で負担しています。今の貨幣価値に換算すると、3000万円を優に超えたそうです。
それで忠敬は許可が降りたので、測量隊を組織して蝦夷地に向かいました。
伊能忠敬の日本地図づくりは、なんとウォーキングの練習から始まりました。当時、日本には距離を測る機械がないので、歩幅で距離を測ろうとしたわけです。その歩幅も正確に刻まないといけないので、一歩一歩が必ず同じ距離になるようにウォーキングの練習を重ねて、ピタッと一致するようになってから測量隊を組織して旅に出たのです。忠敬が携えていたのは、そのピタッと正確に歩けるようになった歩幅と方位磁石と北極星を見上げるときに角度を測る簡単な道具ぐらいでした。そして3年かけて蝦夷地まで行って帰ってきました。
その忠敬が最初の測量の旅に出る少し前、幕府に手紙を出しています。その手紙にはこう書かれてあります。「後世の参考ともなるべき地図を作りたい」と。
江戸に帰ってくるとすぐに忠敬は地球の大きさを出す計算に取りかかりました。そして地球の円周が約4万㎞という数字を算出したのです。その後、オランダから書物が入ってきます。ヨーロッパは産業革命を経験していますから、非常に精巧な機械ができて、その機械を駆使してヨーロッパの天文学者が地球の大きさを測った記録がその本に載っていました。地球の円周は約4万㎞と書いてあり、忠敬が出した数字と一致したのです。忠敬と師匠の高橋至時は手を取り合って喜んだそうです。
忠敬以前の1650年頃の日本地図
もっとすごいのは、今GPSとスーパーコンピューターによってもっと正確な数値が出ます。現代科学の粋を集めて出した正確な地球の大きさと、忠敬が歩幅と方位磁石と簡単な道具だけで測った地球の大きさの誤差が、なんと0.1%未満と言われています。今さらながら、その正確さは驚異に値します。
本来だと、忠敬はここで夢を叶えたということになるわけですが、幕府との約束を果たさなければいけませんから、日本地図を作ります。日本地図といっても東日本です。その地図を作り上げて幕府に献上しました。すると幕府は、その地図の正確さにびっくり仰天して、「西日本の地図も頼む」ということになりました。今度は幕府がお金を出してくれたのですが、ただ幕府は経費を出したというだけです。給料は出ていません。それでも忠敬は西日本の旅に出かけます。この旅は忠敬にとっては本当にきつくつらい旅でした。年齢が60を越えていましたから。
最初の計画では3年あれば九州に行って帰ってこられるだろうと思っていたのが、3年経っても九州は手付かずの状態でした。関門海峡を越えて九州に入ったときに忠敬は娘さんにこんな手紙を出しています。「体がボロボロになって歯が抜け落ちて残りが1本だけになったから、大好きな奈良漬けを食べることもできなくなった」
この西日本測量の旅は体力的にも過酷でしたが、同時に精神的にもかなりきつかったのです。旅に出る前に忠敬が心から尊敬していた師匠の高橋至時が40代の若さで亡くなりました。また、九州測量の途中でも測量隊のリーダーが病死しています。尊敬する師匠と信頼する部下という二つの柱を失って、それでも忠敬はその悲しみを乗り越えて、測量を続けて江戸に戻りました。
足かけ17年測量し、彼の歩いた距離は約四万㎞、地球一周分に相当します。江戸に帰った後は、測量してきたものを地図にしなければなりませんでした。しかし、忠敬にはもうその体力は残っていませんでした。70を越えた忠敬は、西日本の地図作りを前にして病気で亡くなり、それを弟子たちが引き継ぎました。その弟子のリーダーが高橋景保(かげやす)、忠敬が心から尊敬した師匠・高橋至時の息子です。
弟子たちは、忠敬の死を隠して地図作りに励みました。やがて出来上がる「大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)は伊能忠敬が作った地図である。」と発表したかったからです。
そして、弟子たちはとうとう地図を完成させ、幕府に献上しました。そのあまりの素晴らしさに幕府閣僚は息を飲んだそうです。その3か月後、忠敬の喪が公表されました。
大日本沿海輿地全図の一部(伊能忠敬作)
さて、伊能忠敬の話には、素敵な後日談があります。忠敬は記録に残っているように、後世の日本人のために頑張って地図を作ってくれたわけですが、忠敬の死から35年経って、それが現実のものになりました。
その年、ペリーが黒船を率いて日本へやって来ます。当時、欧米は高度な科学技術を持っていたので、欧米以外の地域は野蛮な未開の地だと思っていました。当然、日本も野蛮な未開な地の一つと思われていました。そのとき、ペリーは西洋の科学技術の粋を集めて作った海図を持っていて、日本の海岸線も正確に把握していました。ところが、日本に来たら自分たちの精巧な海図とまるで同じ地図があったのです。
ペリーは非常に直感力の冴えた人だったので、一瞬で悟ったそうです。
「この国は文明のレベルが低いのではない。我々とは質の違う文化を持っているだけだ。」と。そして日本を蔑む態度を改めたと言われています。当時、多くのアジア、アフリカ諸国が欧米の植民地になり、奴隷のようにこき使われていきましたが、アジアの中ではタイと日本だけが独立を守り通すことができました。忠敬の地図は日本を守ることに大きく貢献した一つの要因だと言えると思います。
伊能忠敬の人生は、いつも与えられた環境やご縁を受け入れ、感謝し、そこで出来る精一杯のことを行って、大好きな人たちのために頑張る人生でした。作り酒屋に婿入りした時には家族や従業員のために頑張りました。また、お客のためにできることは何でもしようと徹底しました。商売が軌道に乗ってからは、自分の店に買いに来てくれるお客だけじゃなく、この町内で商売をさせてもらっているので、地域の役に立ちたいと思いました。だから大ききんの時も酒造りの大切な原料のお米を貧しい人々のために惜しげもなくただで分け与えることができたのです。
忠敬は幕府のために日本地図を作ったのではありません。最終的に誰のために頑張ろうと思ったかといったら、後世に生きる日本人のため、つまり私たちのためなのです。だから、つらく悲しい測量の旅でも最後までやり遂げることができたのだと思います。
もう年だから・・・なんて、年齢を理由にしていたら、忠敬に叱られますね。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。