#108 言葉の奥にあるもの
学校の先生方の中には一人の子どもとのやりとりに手を焼いている方がいます。話を聞いてみると、どうやらその子はことごとくその先生の指示に反抗的であるらしいのです。言葉かけがうまくいかないと言います。だから、どのような接し方をしていいのかわからないのだと。
その先生は、言葉を使っての働きかけばかりに気持ちが傾いていると思います。どんな言葉をかけるかはもちろん大切ですが、それは、子どもに対する接し方のひとつの手段にすぎないといった基本的なことを忘れていると思います。
書店に行くと、いろいろな場面での言葉のかけ方を書いたhow to本がところ狭しと並んでいます。それらは方法論として参考にはなりますが、厳密には無駄だと私は思います。なぜならば、そこには言葉をかける先生の人間性が除外されているからです。
子どもは、その先生の言葉を聞いているのではありません。
言葉を通して先生の人間、人の在り方をみているのです。
子どもは、ダイレクトに先生という人間を皮膚で感じているのです。
だから、人にものを教えて指導する人は、自分の振る舞いを振り返る必要があるのです。私は「教師は自らの仕事を畏れる」ことができる人がなるべきだといつも思ってきました。
よく「先生も人間である」というフレーズを巷で聞くことがあります。それならば、まずその自分という人間をしっかり見つめることこそが、子どもを教育することの原点ではないかと私は思います。
学級担任の先生は、いつも30人の子どもの視線にさらされています。
子どもは、先生のすべての振る舞いを観察しています。教科書を読むときの表情、板書するときの先生の真剣さ、口癖。給食の時の食べる表情、食後の食器の汚れ、手洗い後のハンカチの使用の有無など、さりげなく見ているものです。さらに、付け加えるならば、先生の体臭、服の匂い、身だしなみすべてを五感を通して感じているのです。
でも反対に先生から一人ひとりの子どもは見えにくいのです。(one of them)
逆に、子どもから先生は丸裸にされているのです。(only one)
仮に同じ言葉かけをしても、どの先生が言ったかによって子どもたちの心に響く度合いはすべて異なるのです。それは、先生方個々の人間性がすべて違うからです。また先生と子どもとの関係性が違うからです。
だから、言葉かけの言葉だけを取り上げてもほとんど意味がないと思います。むしろ、先生と子どもとの信頼関係が築かれているならば、言葉が少なくていいのです。極端な話、言葉のいらないただ見守るだけの指導があってもいいのではないでしょうか。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。