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#20 教師という仕事の怖さ

 いきいきとした教室、これはすべての子どもたち、保護者、教師の願いです。
 この「いきいきとした教室」は、単なる明るい教室、元気のいい教室とは違います。「ハイハイ」「ハイハイ」と子どもが手を上げている、そのような程度ではないのです。
 教師の大先輩である大村はま先生は、このように定義しています。「いきいきとした教室とは、一人一人が、それぞれに確実な成長感というのでしょうか、一歩一歩高まっている、自分が育っている、という実感といったらよいでしょうか、それが持てる教室なのです。もちろん子どもはそんな表現でとらえてはいませんが、自分が伸びていると感じることは、本当に人をいきいきとさせます。心の底から溢れ出てくるものがあります。できたの、できないのと、喜んだり悲しんだりしている世界ではなくて、みんながそれぞれの成長を願い、一所懸命生きている教室が、ほんとうにいきいきしている教室だと思います。」
 さらに続いて、「そこで仕事をしている教師その人が、その教室で成長していない教室は、いきいきとしそうもありません。昨日よりも今日というふうに、何か気づいたり工夫したりして、教師自身に成長の実感がなくては、いきいきと指導にあたる力、子どもを動かす迫力は出てこないと思います。


 教師の仕事は自分が今持っているあり合わせ、持ち合わせの力だけでやっていても、子どもたちにやさしく、あたたかな気持ちで接していれば、けっこうよい学級の雰囲気は作れるものです。そして一見よい教師として、子どもから慕われ、保護者からお叱りを受けることもなく、また同僚から変わり者扱いされず、よい関係を維持していけるものです。しかし、そこが教師の仕事のこわいところです。それは「よさそうに見える教師」であって、本当の意味でよい教師ではないと思います。この「よさそうに見える教師」を演じ続けて経験だけを重ねていくと、仕事の上での立ち回りだけは上手になりますが、教師として成長していくことはできません。そこが成長できる教師かどうかの分かれ目だと私は思います。何とか問題なくすますのではなくて、人を育てる本当の教師としての自分の仕事を見つめ、畏れながら、力を尽くしていくのが本当の意味でのよい教師だと思います。率直に言えば、自分の今持っているあり合わせの力、持ち合わせの力だけで授業をしているだけでは成長できないということです。(日々自分なりに工夫改善して)何事かを加えて教室に向かい、(子どもたちから教えられる、気づかされる)何事かを加えられて教室を出ることができる教師だと思います。
 そのように子どもも教師も一所懸命生きている、そういうところから「いきいき」とさせるものが、生まれてくるのだと思います。

畏れ:何かを本当に尊い、力のあるものだと思い、その前で礼儀を失わないように控えめにすること


 最後にウイリアム・ウォードが最高の教師について定義しています。

 平凡な教師は言って聞かせる


 よい教師は、説明する


 優秀な教師は、やってみせる

 最高の教師は、


子どもの心に火をつける


 まもなく新学期が始まります。「学んでいない大人から子どもは何も学ばない」と言われています。全国の先生方、子どもたちのため自分の仕事を畏れて、原点に戻ったつもりで、新たな気持ちで教壇に立って下さい!

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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