何故理系やITエンジニアはSNSで女性蔑視発言やネトウヨ発言を繰り返して差別構造を再生産するのか~再現性という科学的手法の罠~
何でこの記事を書いてるのか
公立千歳科学技術大学の私の指導教官である川辺豊が2024年3月で退官するというので最後に会いに行った
その際に川辺豊教授から
「何が差別に当たるのかの統一的具体的な定義は困難。従って私が君を差別したという指摘には当たらない。君が差別されたと感じるのはただの君の主観に過ぎない」
と言われれしまった。かなりとんでもない発言なのでこの記事を書くことにした
差別被害の経験と論理は相容れない
「私は差別被害にあってきました」
このような発言をされたときどう感じるだろうか
それは人によるのだろうが、問題はこれを論理的手法、言い換えると理系的手法で分析しようとした場合に発生する
というのも差別されたというのはどうあがいてもただの個人の主観の話であり、理系にとって重要な客観性の担保のしようがないのである
SNS等を見れば分かるが
「差別されたという証拠がないと信じられない」
とかいう耳を疑うような発言が飛び出すが、エビデンスもないものを信じてはいけないというのは理系の研究手法としては完全に正しいのである
だから何故か理系界隈やITエンジニア界隈はやたら女性蔑視発言が多いのである。女性差別全般に明確なエビデンスがあることはそう多くはない。だから彼らは証拠もなく「お気持ち」で話す人達が論理的だとは感じられず許せないのである
N=1の罠~理系的手法の問題~
この記事の主題である
じゃあどうやって差別されたというただの個人の主観に過ぎない経験を理系的手法に落とし込むのか
そのためには再現性が要求される。じゃあ差別された人を何人も見つけてきて統計を取ればいいのかと言うとそうではない
経験はすべての人にとってユニークである。すなわち人類が70億人いれば70億通りの経験が存在する
したがって差別被害者を3人捕まえてくるとN=3になって少しは理系的手法を使えるようになるのかと言うと全然そんなことはない
N=1が3つに増えるだけである
つまり理系的手法による限り永久に「差別の客観的証拠」なるものは出てこないのである
これは言い換えると理系的手法で差別を取り扱うには同条件で全く同じ来歴を追えば100回差別されたとかなればようやく論理的に扱えるとかそのレベルである
次は差別されないかもしれない人間を差別被害者だということは理系的手法ではできないのである。何故ならばその差別の経験には再現性がないからである
クソすぎる
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