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伝えるべきは言葉のみにあらず。

 連日熱戦が繰り広げられている東京オリンピック。今日たまたま見た放送で思ったこと。

 舞台は日本武道館。競技は空手の型。男子の決勝。結果としては日本選手が金メダルを獲得。オリンピック競技としては初の種目だったと思う。僕は空手には明るくなく、ましてや型の流派等も全く分からない。

 それでも、対戦相手の選手含めて両者の演武に魅了された。日々の鍛錬、心構え。競技として決定してから4年間のみならずの想定外の5年目での開催。そんなありとあらゆる物や障害を乗り越えて、両者が己の時間という生命を賭けて積み重ねてきたものを、沈黙と静寂の空間でありながら、張り詰めた空気の中で表現する。精緻に並んだ空気の粒子とでも呼ぶべきものを手足で切り裂いて、舞台で立ち振る舞うその姿は圧巻だった。試合ではなくて「演武」足る所以が凝縮されていた。

 そんな滋養に溢れた数分間の演武を終えて、日本選手のインタビューが始まったのだが、これがいただけなかった。感想を求められ、彼は文字通り言葉に詰まっていたのだ。精根尽きていたかもしれず、感極まっていたかもしれない。あるいは自分自身の思いや周りの人の思い等、たくさんの物を背負っていたからかもしれない。演武終了後の直後であり、シンプルに頭が円滑に働いていないこともあったかもしれない。いずれにしても、

ー簡単に言葉で説明出来ないー

必死で言葉を探そうとうつむいている彼から、そんな思いがテレビ越しに強く伝わって来た。

 一方、インタビュアーはずっと言葉を待っていたのだ。長い沈黙の途中に確か「何とか今日一言でも」みたいな言葉で、彼の言葉を引き出そうとしていた。もちろん、インタビュアーは選手の言葉を伝えるのが仕事であり、引き出そうとするのが使命かもしれない。

 けれど、その長い沈黙が言葉以上に雄弁に彼の思いを語っているではないか。なぜそれを感じとってあげないのだろうか。インタビュアーは選手と相対して会話をすることのみが仕事では無い、と僕は思う。時には代弁者として選手に寄り添う事も必要ではないか?今日のインタビューでは「何とか一言でも」みたいな言葉ではなくて、「今の沈黙に〇〇さんの中に去来する様々な思いが凝縮されているのが伝わってきました。ありがとうございます。そしてお疲れさまでした!」と、言葉を待っているかもしれない視聴者と言葉に詰まっている彼を繋ぐことが出来たはずだ。

 ましてや、競技は空手の「型」である。陸上の短距離100mや野球のような爆発的、瞬発的な力を表現するスポーツとはかなり異なる。己との対峙、見えない相手に対する空手を見せるという、精神的に内側に入っていくことで己を高める種目なのだ。おのずと、この競技に身をおく選手がどのような日々を送り、どのような思考を構築していくかは一目瞭然である。手足の先、もしくはその先の見えない部分まで配慮するような世界に常住している人に繊細なアプローチが必要であることは、自明だ。

 であるからして、申し訳ないが今回のインタビュアーは非常に「無粋」であったと言わざるを得ない。オリンピックに限らず、この手のインタビューが良く見受けられることが残念だ。プロ野球でよくある「打った瞬間、どう思いましたか?」「抜けろと思いました」といったテンプレートのごときやりとり然り。はっきり言って、陳腐過ぎる。

 インタビュアーの皆さん、冒頭のタイトルについて今一度良く考えて欲しい。

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