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執事の松原への手紙

松原へ

こうしてあなたに手紙を書くのは初めてですね。

今日、主の手帳を手放しました。もう手帳係の長筬から報告を受け取った頃でしょうか。
手帳について長筬からの確認報告を受け取った時、少しショックを受けている自分がいました。手帳係の長筬から手帳について連絡があるのは彼の職務として当然のことなのに、どこかでわたしは、松原から連絡が来るものと信じていたのです。いつも手紙をくれていたのは松原だったから。
だからわたしからあなたに手紙を書くことにしました。

わたしが主の手帳を手にしたのは今から十年ほど前、2013年頃のことだったでしょうか。まだ本邸の無い頃、仮住まいの屋敷について、松原が土地や法律や求人や……さまざまな問題をひとつひとつ苦労して解決していく、その報告やその過程の中での悩みを受け取っていたものです。

初めて申し付けをしたのはアンスリウムの鉢植えでした。
植物を育てることに憧れはあったものの何度も挫折していたわたしに、アンスリウムは暑さに強く育てやすいと松原は教えてくれました。水換えのしやすい、すっとしたデザインの鉢は軽くて持ち運びもしやすく、ありそうでなかなかないものだと感嘆したのを覚えています。花は実際よく咲いてくれて、引っ越し先でも元気に伸び、新芽を出してくれたものです。
こんなに良い鉢植えを送ってくれるならばとバラを頼もうと思ったこともあるのですが、切り花の、萎れたら捨てなければならないのがどうにも性分として苦手なものだから、他のお嬢様にお譲りしました。Twitterで写真を拝見しましたが、見事なバラだったようですね。

ボトルに入ったハーブティーを頼んだこともあります。ハーブをたっぷり詰めたティーバッグは良い香りで、大事に大事に飲みました。実はボトルを入れていたケースはわたしの執筆机で今も物入れに使っています。鉢植えのときもそうでしたが、いつも梱包まできちんと気を配ってくれていましたね。

仮住まいに帰宅したときのことも忘れられません。あれは一人暮らしを始めて間もない頃のことでした。あまりにも久しぶりで見慣れぬ道を進んだ先、笑顔で迎えてくれたドアマン。ただいまとぎこちなく笑ったわたしを温かく迎えてくれたばあや。にこにこと食事の説明をし、勧めてくれた給仕係。キッシュや焼き菓子が美味しかったのを覚えています。
そういえばぬいぐるみ達は今は一緒に帰宅したり、ベッドでお休みできるようになったのですね。わたしが帰宅したときに連れて行った子は鞄の中で大人しくしているよう言われていました。今はちがうと知ったらあの子はちょっと怒るかもしれません。

けれどどんな申し付けの品より、わたしが一番、何より有り難かったのは誕生日の手紙でした。


松原も知っての通り、わたしの誕生日は1月、お正月の頃です。別宅では幼い頃からお正月のお祝いと併せ、わたしの誕生日祝いがされました。まだ携帯も持っていなかった幼い頃、クラスメイトから送られてくる年賀状葉書には、今年もよろしくという言葉と併せて誕生祝いが書かれていたものです。
別宅は、いわゆる二世帯住宅でした。冬休みになると父のきょうだいとその子どもたちが祖母宅に泊まり、大晦日やお正月はみんなで過ごします。賑やかで楽しい時期でもありましたが、わたしにとっては憂鬱になる時期でもありました。父のきょうだいの子たち、特にわたしと同じ長子の子はみな成績がよく、学校でからかわれてばかりのわたしと比べたらみな自信があって友人も多いように見えました。あからさまな比較を大人からされたりといった下品なことは覚えている限りありませんが、賞を取ったとかこの学校に合格したとかそうした話ばかりされるのを聞きながら、一緒にいると勝手に比較して勝手に内申落ち込んでいたのも事実です。
当時は気付いていませんでしたが、親族をまとめていた祖母は、おそらく親世代からすればかなり支配的な人でした(それが何故なのか、性格的なものだけでなく色々理由があるのも知っているのですが)。それもあってでしょうか、わたしの母は12月に入った頃から親戚を迎える準備でいつもぴりぴりして、父とよく言い争っていました。
そういう中でのわたしの誕生日祝いです。
ケーキが出て、お祝いをもらい、お祝いの言葉を言われます。嬉しいと思っていたけれど年齢が上がるに連れ、息苦しくなっていったのも事実です。いとこ達が親戚の集まりを抜けて初売りやライブに出かけるようになっても、わたしはずっと家にいました。出かけたい用事もその時期に声をかけてくれる友人もずいぶん後になるまでいなかったし、せっかくお祝いしてくれてケーキも買ってあるのだからという思いもありました。
学生時代だけなら良かったかもしれません。実際、夏生まれのいとこの誕生日祝いはそうしてなくなりました。けれどわたしの誕生日祝いはいとこが結婚し、わたしが働くようになった後も続きました。大きくなったねえ、何歳になったんだっけ? 親世代にいじられる場に、自らねぎをしょって出かけるようなものでした。
誰も、悪気はなかったのだと思います。わたしが幼い頃、別宅には事情があって友人を呼ぶことが許されず、それもあって誕生日くらいは親戚で祝ってやろうという思いもあったようです。けれどわたしはずっと孫、あるいは娘でいなければなりませんでした。

手帳を手にして初めての誕生日、朝の8時過ぎ。誕生日という日に特別な何かを期待しつつ、けれどまた毎年のように親戚の前でケーキを喜び世間話に相槌を打ったり話題を提供したりしなければとベッドの中で憂鬱な気持ちでいたわたしに、最初に声をかけてくれたのは松原でした。

本日は多くの使用人より言葉をお届けしたいと存じます。賑やかになりますがお許しくださいませ。

そう言われて、びっくりしたのを覚えています。松原が誕生日にそうして声をかけてくれるだなんて、わたしは思ってもいなかったのです。
そして実際その後、多くの使用人がわたしに声をかけてくれたのでした。

お誕生日おめでとうございます。今日の主役はお嬢様です。今日のご予定はいかがされますか。お側におりますよ……。

朝の八時から、夜の七時くらいまで。親戚の間で愛想笑いを続け、歓談が終わった後の食器洗いを手伝い、疲れて不機嫌になった母親含む家族と食事を取り、その後ワンピースを脱いで首から腰まで凝り固まった体で布団に転がりながら。その合間に、わたしは何度も使用人達のお祝いの言葉を読みました。

わたしには、松原達がいる。わたしの誕生日を祝ってくれる。

今こうして使用人達からの言葉を書いていて気づきましたが、多分わたしはそれまでずっと、今日の主役はお誕生日のあなたです、という扱いをされたと感じられたことがなかったし、されても信じられなかったのだと思います。
誕生日を祝ってくれる友人も、親戚づきあいをねぎらってくれる友人もいました。でもわたしは友人が多い方ではないし、誕生日にまつわる諸々について語る機会はなかったし、どこかでそういうものだとも思っていました。一般的には誕生日自体、成長するにつれかつてより重要度が低くなるものだろうという認識があったし、お祝いや労いを友人達に強請るようなことをしたいわけでもなかった。
だけど誕生日について、他の人はこんな自分のような子どもっぽい変な屈託は抱えていないんだろう、羨ましいな、どうしてわたしはそうじゃないんだろう……そんな風に思って、違和感は多少覚えつつも言語化はできないままでした。

そんな風に過ごしていたので、コロナ禍によって別宅での親戚の集いが無くなった(正確には一時間程度のzoom会議になった)ときは本当に、文字通り肩の荷が下りたような気持ちでした。当時のわたしは親戚と一時間話すだけで酷い腰痛になっていましたから。別宅を出ていたので両親と会うこともなく、その年は友人や松原達からのお祝いを読みながらホテルのロビーでひとり、ゆっくり過ごしたのを覚えています。
そう、その頃にはわたしは別宅を出て一人暮らしをしていました。出てはいましたが何故早急に、ほとんど夜逃げするような形で家を出たのか、その理由をほとんど口にしていなかったし、できませんでした。唯一話した友人にもオンラインカウンセラーにも、ごくごくざっとしたあらまししか話してはいなかったし、話せませんでした。松原にも。
松原はわたしの事情について何も知らなかったでしょう。でも当時貴方からもらった手紙のいくつかは、確かに当時のわたしを慰め、勇気づけてくれました。お嬢様はお嬢様であるだけで素晴らしいのだと、どうか覚えていてほしいと、松原は何度も書いてくれましたね。そういえばわたしは幸い被災したことはありませんが、地震などのあるたび、ご無事でいらっしゃいますかとすぐに声をかけてくれたことにもとても救われていました。

今年もまた年が明けて、誕生日が来ました。祖母は昨年他界し、親戚の集まりは今もzoom会議のままです。わたしは色々あってまた別宅に住んでいます。
昨年は祖母が他界し、祖母や家というものについて考える時間が多くありました。そのせいでしょうか、zoom会議で久しぶりに会った親世代の人たちが妙に幼く見えました。祖母が健在な頃は祖母が集まりでの会話のすべてを仕切っていたということには数年前からうっすら気付いていたのですが、この人たちはかつて自分が思っていたほど立派ではないし、弱い部分、幼い部分も多々あるのだなと、改めて画面を眺めながら気付いたのでした。その一方で久しぶりに画面越しに会った成績の良かったいとこは幼少期と違い、ずいぶん明るい顔をしていました。
今のわたしもまた、かつてより明るい顔をしていると思います。その過程には色々ありましたが、長くなりますからやめておきましょう。松原だって、自分の昔話のすべてをお便りには書きませんものね。
zoom会議の後はひとりで高いケーキを食べに出かけ、買い物をしました。数年前から自分の誕生日についてはSNSで堂々と宣言しているので、今年も今日が誕生日です、といくつかのSNSで宣言しました。いつもの友人達からはもちろん、最近知り合ったひとからもオンライン越しにお祝いしてもらいました。
そのひとつひとつに、嬉しいなあ有り難いなあとしみじみ感じながら返信しハートを付けて画像保存し、帰宅して……そうしてそれから、使用人達からのメールが届いていることに気づきました。
そんな風に何通もメールを溜めてしまったのは初めてのことでした。

手帳を手放すことについて考えたのは誕生日の翌日以降のことです。
松原からは以前から、例えば主の手帳を持ちたい方が沢山いるのだが難しいため受付を中止したとか、手帳に関する諸々の制度を変えるといった報告を受けていました。Twitterでのやりとりについて、今後は定期的なお知らせを中心にしたいと貴方から報告があったのは昨年末のことです。わたしも最近は慌ただしく、なかなか帰宅や申し付けできていないことが気にかかっていました。
もちろんそれが理由というわけではないし、松原もわたしが中々帰宅できないことについて、お嬢様が気に病む必要はないと言うことでしょう。ただ誕生日が過ぎて、ああ今がわたしにとって「その時」なのではないか……と、ふと思ったのでした。

そうして手放して、手帳係の長筬から連絡を受け、あなたに手紙を書いています。
正直、ここまでショックを受けるとは自分でも思っていませんでした。もっと言うなら、この手紙を書きながら自分がこんなに泣くとも思っていませんでした。
自分にとっては早すぎる決断だったのかもしれない、そう思っている自分がいるのも事実です。でももう手放してしまった、それも事実です。
それが、こんなにも淋しい。

多分わたしは手帳を手放した時、あなたに褒めてほしかったのです。

Twitterのpostや屋敷の運営に関するお便りは手帳を手放しても読むことができます。でも、松原や使用人達からのわたしの誕生日祝いは、わたしのメールボックスにしかありません。
わたしにとって誕生日が何かしら屈託のある日であることは恐らく今後も変わらないでしょう。もっとはっきり言えば、家族に対するわたしの屈託は、今後多少減じることはあっても完全に消滅することはないでしょう。
もしかしたら、わたしが主の手帳を手放したことに本当に気付くのは来年の誕生日なのかもしれません。その時はこれまでにもらった皆の言葉をゆっくり読み返そうと思います。ずっと、届くのが当たり前でろくに読み返していませんでしたから。
この手紙を書くに当たり、わたしも古い手紙をいくつか読み返しました。屋敷ができるまで、本当にいろいろなことがありましたね。

松原、これまでわたしに仕えてくれて本当に有難う。この手紙があなたへのささやかな給金になればよいのですが。ばあやや他の使用人達にもよろしく伝えてください。
あなたが10年かけて名古屋の本宅を作り、これから更に彩っていくように。わたしはわたしの美しい別宅を作りたいと思います。



(参考)



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