20230628 安易な二項対立化

高校時代、現代文のI先生に教わって以来、二項対立でものを考える事が多くなった。

彼の授業のとある回で配られた紙である。確かA4横使いで、上下二パートに分かれている。自然と人、前近代と近代以降...のように、対立する概念が二つのグループにそれぞれ延々と並べられていた。これとこれが同じ側にあるのか、ということが当然起こるが、彼はそういうものなのだ、というようなことを言った気がする。

それ以来二項対立で考えることが多くなった。癖になっていたと言ってもいい。

建築に関して理解するときは、特にそうである。前近代とモダニズム、装飾的と無装飾、というように。モダニズムとポストモダニズム、機能分離と用途混合、というように。

しかし、ある時期からその危険性を意識するようになった。世の中はそう単純にできてはいない。もちろん、単純に整理してしまうことが便利であったり、それが実際に妥当性を持っていることも多いが、そうでないことも多い。

今日のN先生の講義で発言した際に、「機能が曖昧」を、安易に「他律」と結びつけてしまいかけて、慌てて撤回した。自分の中ではポストモダン的な他律的建築と、ポストモダンの特徴である「機能が曖昧」が二項対立上で同じ側にあると思ったのである。しかし、「機能が曖昧」であることは、必ずしも他律的であることにはならない。安易に二項対立で考えると、こういったことが起こり得るのである。(これは、一例にすぎない)

もっと拡大して考えると、(一つ前の投稿で書いた)音楽ジャンルの話もそうである。安易に型にはめて理解しようとすると、細かい違いや実際の状況を見落としてしまいかねない。

自分は大した脳がないので、体系化しづらいものを受け入れ難く感じてしまう節がある。というよりは理解できない、する脳がない、のに近いかもしれない。昨日のK先生の講義で、「科学には予想ができない、未来の不確かさを受け入れなければならない」との言葉もそうだし、今サブゼミで読んでいるヴェンチューリの考えもそうである。これからはこういった複雑性を受け入れていかなければならない、と反省する次第である。

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