木材価値の源泉...

最近、講義や座談会などにお声掛けいただくことが増えて、僕などの何者でもない人間が恐れ多いとは思うのだけれど、できる限り引き受けようと思っているのは、人前で話したり又は話すための準備をすると、自分の中の自分は何者であるかを少しの間だけ整理できる気がしているからで。

特に僕なんかは、人からは何をやっている人かよく分からないと言われることが多く、それについて自分でも明確に説明できないことがよくあるので、自分が残して来た足跡と今後の道筋について少なからず整理できるのだ。

自分で自分の仕事を一言で説明できないのは、それに当てはまる「言葉」や「職種」が無いからなんだろうと思っているのだが、おそらくその「言葉」が見つかったところで、さらにその想定を上回る仕事のあり方が出てくるんだろうなと予想するし、それだけ、時代が変革の中の変革を遂げているのだろうと思う。

だからというわけでもないのだけれど、ジャンルという括りで仕事のあり方を考えていると、すぐにその考え方は陳腐化して嘘くさくなるんだろうと思っていて、最近、もっと「価値の源泉」みたいなものに深く物事を掘り下げて考えている。

木材にとっての価値の源泉とは何か。

例えば、昔は「木材の価値」はある程度定義づけらていたと思う。それは、木材の「クオリティ(品質)」とそれを使う「クリエイティブ(技術)」の相関関係の中で定義されて来たように思う。
例えば吉野林業の「クオリティ」は酒樽を作る「クリエイティブ」に最適で他の産地のものでは代替えが効かないし、北山磨き丸太は、中世以降の歴史の中で茶室などの数寄屋建築において、侘び寂びを体現して来た。
それらが価値あるものとして定義されたのは、それがそれであるという価値観が内的に存在していたからなのだと思う。その木材が持つ揺らぎや、質量とその間の空間を演出する技術者やクリエイターが、それがそれであるのだという根拠を内的に存在させていたからだと思う。つまり、わかりやすくいうと日本人の日本人としての美意識に自信があったのだと。

それが戦後の高度成長期の量産体制の中で、日本人は「マテリアル」や「質量」というものに対する美意識や感覚について鈍感になってしまったし、フェイクやコピーに溢れて本物の質感について触れる機会が極端に減ったのだと。マテリアルのメーカーでさえ、化学技術でいかに「本物」に似せたフェイクを作ることが企業努力に変わってしまった。

結果、「本物」や「良いもの」の価値観を「内的」ではなく「外的」に求めるようになってしまい、そのことが日本人の美意識を変えたような気がしている(特に木材のことだけについて言ってるのだけど)。

つまり、価値の源泉を「外的」に向けてしまうと、外側にそれを委ねるデザインやものづくりが横行して似たようなもので溢れかえる。

で、そこで、「クオリティ(品質)」と「クリエイティブ(技術)」の相関関係の話に戻るが、価値の源泉を「外側」に向けることで、その相関関係のバランスは崩れてしまう。
本来、四方無地、柾目、の価値観はクリエイティブの手で「内的」な価値観において、これはこれであるべきであると市場に手渡されてきたはずだが、「価値の源泉」が「外側」に向いた時点で、それが四方無地であるべきでも柾目でもなくて良くなるのだ。一歩間違って四方無地や柾目などの希望があったとしても2次元的な情報、つまりプリントや合成で妥協できる落とし所があるのだ。価値の本質を見失っているのである。

いやもしかしたらそれが新しい価値の源泉なのかもしれない。


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