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やりたい仕事のキッカケはタイの山奥にあった!Vol.1 「目指せ!カオサンロードはまだか?」

初めまして。初めてnoteを書きます。ウッディー珈琲です。

先日、自宅の倉庫を掃除していたら、懐かしい旅日記達が出てきました。

スマホもWi-Fiもまだ普及していない時代の2004年。

新卒で入社した会社をドロップアウトした僕が体験してきたバックパッカー物語。アジアは微笑みの国タイランド編。

目指せ!カオサンロードはまだか?

桜が咲き始めた2004年4月某日。ありきたりだが、日本での社会人生活に疑問を感じ、新卒で入社した会社を退職して、10日後には、成田空港にいた。

「世界での日本人は本当に裕福か?」と言う疑問にぶつかった僕(ウッディー珈琲)は、旅行代理店に電話をして、とにかく安いチケットを探して、信じられないくらい手抜きのインド航空のジャンボ機に飛び乗った。

学生時代、3年半のアメリカ留学生活や新卒で入社したイベント会社は、仕事柄出張三昧(国内)だったから飛行機には慣れていたけれど、このインド航空には正直たまげた!

「壁が剥がれている!うわっ!椅子のビスが抜けているよ。機体はガクガクしているし、おい!機長あんた大丈夫か??」とビビリってしまった。ただ、これから始まる異国の世界への物語にワクワクと期待は膨れ上がっていた。

空を飛んでいる機内の中では、日本から買ってきたタイ語の会話本“タイ語自由自在”でタイ語学習に励んでいた。「サワディーカップ!(こんにちは。)インディーティーダイルージャック!(初めまして!)」。

僕の隣の席には、日本人のおっさんが座っていた。挨拶をすると、青木さんと言う名前で、原宿でブティックを経営しているとのことだった。この青木さん。出てくる会話はアジアの下ネタばかりだった。

「ウッディーくん、アジアはね、やっぱり女だよ。女。タイも良いけど、ベトナムの女は最高ー!もし、ベトナムに行ったら…、〇〇に行ってごらん。」とニタニタしながら先輩風を吹かしながらトークを続けていた。

僕は…そんなつもりでアジアへ行きたいわけじゃない!日本人でアジアに行くヤツはみんなそんな感じなのか?その時の僕にはまだ何もわからなかった。

見るからにタイ人。キョドり過ぎの氏木さん。

機内から出ると、今まで味わったことのないムッとした熱気に包まれた。

バンコクに着いたら、世界中の旅人達で有名なカオサンロードというエリアに僕もパックパッカーお上り宜しく、最初は行こうと決めていた。

初めてバンコクの空港(ドンムアン)に着いた僕は、まずバス乗り場もバスの乗り方も分からない。また日本では考えられないタクシーやホテルのキャッチのおっさんおばさん兄さん姉さんが空港にはワンサカいる。

「タクシータクシー」「安いよ安いよー」誰を信じて良いのか、誰に着いていっていいのかわからない。

僕もタイ初心者。バックパッカー初心者。本当は他の素人旅行者と同じく、初一人旅らしく、イミグレで迷ったり、乗り物は何処だ?とオロオロしたり、困ったりしたかったのだが、隣に座った青木さんが、ありがたくもお節介いっぱいで、空港外のバス停まで丁寧にエスコートしてくれた。いきなり、空港外まで飛び級で来たのだが、情緒がない。

バス停と言っても、案内してくれたのは、普通の公営バスではなく、日本人を含めた旅行者用のエアポートバスだった。それが一番早くカオサンストリートに着くとのこと。日本円で300円程度な物だけど、その時の、現地の物価としては結構高級みたいだった。後々、詳しい人に聞くと、当時のタイ人的感覚では、日本人の3,000円くらいってことらしい。

青木さんは、バス停まで僕を送ってくれたら、そのまま自分はタクシー乗り場の方へ行ってしまった。お節介とか思ったけど、よく考えると、エロだけど、普通に親切な日本人のおっさんだったわけだ。青木さん、ごめんなさい。

エアポートバスと言うこともあり、バスの車内は、殆どが白人や日本人の旅行者だった。しかしながら、僕の隣の席には、半袖短パンの肌の黒いアジア人が隣になった。

「現地の人もやはり乗るんだな~」と思っていたら、「どうも…」と、か細い声で日本語で話しかけられた。日本人だった。話すと、彼は大阪からやってきた29歳の氏木(うじき)さんと言う男だった。

海外に出るのは、これが初めてとのこと。僕と同じじゃないけど、「30歳までには一度は海外に出る!」と決めて、新卒から勤めた中堅どころのバイク販売会社を辞めて、飛び出してきたとのことだ。

勢いがあって、思いっきりのあるお兄さんに見えるが、この氏木さん、面白いぐらいに、ビクビクしていた。

「いや、隣が日本人で良かった。僕、日本語以外、外国語まったくダメなんですよ。」と。

皆、それぞれ違うバックグラウンドを持って外国に来る。これぞ旅だ。

カオサンロードは日本の東京でいう渋谷と六本木と上野のアメ横を混ぜたみたいな感じで、世界中のバックパッカーが集まることで有名なエリアだ。とは言え、降り立ってビックリ!欧米人の多いこと多いこと。

タイ語はしゃべれないし、タイ人だらけに囲まれたら、気合を入れて行かなくてはと思っていたのもあり、正直着いたときにはホッとした。僕は3年半のアメリカ留学のおかげで欧米人恐怖症はなくなっていた。

とは言え、とりあえず、旅初めの初日。「一人じゃ怖いからウチ君一緒に行動しよう!」と氏木さんにバス車内で頼み込まれていたのもあり、一緒に行動することになった。

世界的にも有名な安宿街のカオサンロードのゲストハウスは、当時日本円で安い所だと、驚愕の1泊100円くらいから泊まれて、高くても1,000円あれば広い部屋に泊まれたリーズナブルなエリアだった。

僕と氏木さんは2~3軒ホテルをまわってみて、300円で泊まれるゲストハウスに決めた。シングル、エアコン無し、風呂トイレ共同。と思っていた通りの安宿だ。しかし、目の前は屋台街だし、別に部屋も汚くなかった。最初の日はアジアっぽい熱に包まれたいと勝手にロマンチストになっていた僕には最高の場所だった。

徐々にテンションがあがってきた僕は、部屋に荷物を置くと早速氏木さんを誘って「メシ行きましょう!ぶらつきましょう!」と提案した。氏木さんは一息着きたそうな感じで、ちょっぴり抵抗があったらしく、「えーっ!!ようやく着いたんだから部屋で少し休憩しましょう。」と消極的な発言をした。が強引に連れ出した。

ゲストハウスの外を出ると、目に付くのは屋台屋台屋台。タイは食事所の名も持つくらい食べ物が豊富。典型的なタイ焼きそばのパッタイから世界3大スープに入るトムヤムクンまで街角には、屋台でな~んでも食べることができる。そして、本当ビックリするくらいうまい。しかも驚きなのは値段。屋台でうま~いラーメンとかは1杯30円とか高くても100円くらい(当時)。

僕はここぞとばかりにガツガツ食べた。しかも屋台で働いているのは中学生くらいの女の子達。本当アジアの子たちは親の手伝いをしまくる。日本人として見習わなくてはと、考え込む。

食事が終わった僕は氏木さんに再度提案。「氏木さん、まだ21時っすね。飲みに行きましょう!」と僕。「いやいやー。ウチくん。ご飯も食ったし、もう今日は充分だ!外は落ちつかないしゲストハウスへ戻りましょう!」と氏木さん。記念すべき初日の夜だ。21時に繁華街にいて帰るなんて、当時の僕には考えられなかった。

Mっ気爆発!異文化コミュニケーション

再び強引に氏木さんを捕まえて近くのバーへ。たまたま入ったバーは外国人旅行者がほとんどいなく、タイ人ばかりのローカルの店だった。空港に着いたばかりの時は、タイ人とやり取りすることにドキドキしていたが、何時間か経ち、僕もタイ人とのやり取りにワクワクしてきた。

ビールを飲みたくても言葉は通じない(タイ人は基本的には英語は通じません。)、ここで僕の飛行機内で勉強をしてきた自由自在の出番である。「コー・ビアーシン・カップ!(シンビール下さい。)」………。通じない。さすがタイ語、発音がカタカナ読みだと通じない。僕は不思議にも嬉しくなった。

ビールを一本注文するのにこんなに苦労する。言葉が通じない。嬉しくてたまらない。これぞ異国。バッグからタイ語会話本を取り出して、ウェイトレスの姉ちゃんに文章を指しながらもう一度。「コー・ビアーシン・カップ!(シンビール下さい。)」

やった!通じた!これぞ異文化コミュニケーション。飛行機の中で青木さんに邪魔されつつも覚えた基本的な挨拶もしてみた。

「サワディーカップ!(こんにちは。)インディーティーダイルージャック!(初めまして!)」と会話集お決まりのラリーをする中、どうやら、このお姉さんはチューって名前で18歳らしいことが分かった

とりあえず、かなり可愛いかった。僕の名前も覚えてくれた。週5で働いているらしい。次々に質問をする僕に発音を教えてくれたり、かなり親切なウェイトレスさんだった。帰り際には、チップをはずんだ(笑)。

結局12時過ぎまで飲んで、僕と氏木さんは初日なのにもかかわらずへべれけへべれけでホテルに戻った。

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