2018よりも30なのだ。
何か忘れてないだろうか…
平成が、30になったのだ。
てっきり今回の4月末で年号が変わると思ってしまっていた去年の暮れ、それは来年の2019年、つまりは平成31年4月末のことなのだとか。
私は立派なゆとり世代である。
平成の産物とかなんとか言われるのか?言われていますか?企業に勤めていた時はそりゃあギリ当てはまらなかった体育会系の上司に散々ゆとりゆとりと言われたことも良い思い出です。(特にこれは嫌ではなかった、仕事で成果を出せばいいと思っていた。しかし問題は協調性のなさにあったらしい。…それはゆとりと関係あるのかしら…?…これは性格です。)
それでも会議で黙り込むよりは意見を述べた方が、偏差値的に馬鹿でも馬鹿なりに見てるところはあるので通るものは通ったりした。臆するな。空気を読むなんて逆に、それこそ馬鹿らしい。今の世はそれがもっとやりやすくなったのではないだろうか?頑張れ若人よ。長い物には巻かれるな!そしてご飯は奢ってもらえ。
なんて話をどうして徒然と書き始めたのだろうか。特に理由はないけれども、新年といえば切り替えなのである。輪廻転成並みに大晦日までに去年のすすを払い浄化し生まれ変わって新たな私に成る。そんな時は昔のことを少しばかし思い出してしまう、なんてこともなきにしもあらず…
やめた事がある。
某大型掲示板を見なくなった。
エゴサがーとかTwitterを掘るーとかをやらない人なのだが、10代から所謂2ちゃんねらーというやつだった私は、自分と全く関係ない畑を見に行くのが趣味だった。逆に近しいものは恐ろしくて見ていられない。
何故やめたのかというと、つまらなく感じるようになったからだ。
その場が廃れたのか?それとも方向性のズレか?キラキラ系でも目指し始めたのか?
答えというか、あーそうかもしれないなーなんて思っていることは、
ネタのために見ていたものが気持ち悪くなってしまった。精神衛生によろしくないものは中毒性が高く時間を浪費しがちで、その分生産できる時間まで削っていた…これらが多分、今更になって離れた理由として挙げられる点である。
いや本当に赤の他人のどうでもいい事、それも不幸なこと、言葉は神経を知らない間にえぐっていると感じた2017年もとい平成29年だった。積もり積もった遅効性の毒だ。
2016年にも似たような事があった、それは国民的大スターグループの解散騒動だ。
2017年11月にはそれのネット番組があった。
特にファンでもなんでもないのに、まぁまぁ人の熱が集う場所のなんともいえない磁場の強さよ。それも余りよろしくない方の魑魅魍魎を引き連れた言霊たちよ(ファンの方いらしたらごめんなさい)。
熱気とは時に狂気なのだ。
人が多い所は歩くスピードが速ければ完全無関係、自分にそこを通る理由がある場合のみはなんとかやり過ごせるのだが、耐性も強化もしていない状態で変に関係ないところに足を引っ張られるという、恐る恐る障子に指で穴を開けて中を覗いてしまったあの瞬間のその部屋の中の渦の色よ。
人の念とはなんと恐ろしいものか。
一見良く見えるものも言い方は悪いが盲信しているレンズをはめている者が綴る発する言葉は何か別の色をまとっているのだ。
君にはあれが何色に見えるだろうか。
だからやめたのだ。はっきり申し上げて辞めたのである。
確かにリアリティを求めてネタ探しをしていた媒体ではあったが…それにより関係ないのにもかかわらず毒牙に心身を持っていかれるのは大変不健康だ。いい歳だし悪趣味だ。
さて、それからというものインプットは別の媒体に割くこととなった。
映画や書物、クリエイター、音楽、ライター、一枚の写真。
ごく普通の事、今までも好んで見ていたものであるが、味わい方を変えた。一新してみた。好きな記事には課金もして感謝の念を具現化しつつ良質な食事を得始めた。
わー、とっても健康的且つ有意義な時間だ…!
エンターテイメントに消化できているものを見る事がなんと素晴らしいことか再確認した。
これ、自分にも言えることなんだ。自分がやりたいことってこっちじゃないか。
そりゃあポジティブに人が集うはずだと改めて考えさせられた。例えるならばそれらは丁寧に下処理をした和食のようなのだ。
そうこうしている間、2017年末、幸先のいいことに憧れの人が増えた。
だからと言って真似をするわけではない。何故なら私は腹の中が真っ黒いからである。それは決して否定しない。人には本音と建前がある。そして私は人付き合いをかなり選ぶタイプだ。適材適所、私はそこではない。
だからこそ、人と繋がる憧れの彼ら彼女らの仕事ぶりや生活を見ていると、まるでそれまでもが映画や書物のようなのだ。だから、好きな人を私は深掘りしない。
2018年は平成30年である。
わたしはゆとり。平成には思い入れがある。終わる前に一発ドカンと打ち上げて見たい。憧れとは程遠い私の、いや、だからこそ切り替わった今が勝負時なのだ。