エブエブに感じてしまった違和感から、マルチバースにおける正義を考えてみる。
これ、見終わった直後に殴り書きしたFilmarksです。noteに上げ直してみようと思ったけど新たに書くこともなく、それっぽいタイトルつけただけです。
※ネタバレ注意ってやつです。以下本文。
結構な期待を持って観に行ったが、僕には評価が難しい映画だった。
演出・編集の面では素晴らしかった。多元宇宙、並行世界のダイナミックな移り変わり。他のマルチバースで起きたことが元のマルチバースに影響を及ぼすさま。ダイナミックながらリアリティを失わないアクション。マルチバース映画が見せるべきもの、見せたかったであろうものを映像体験として届けてきたなあという印象だった。
演技も素晴らしい。父の並行世界ごとの演じ分け。母の戸惑いつつも巻き込まれていく心情。娘の理解されない寂しさを抱えた表情、並行世界の時に見せるサイコ感。
一方で筋書き・構成の面ではやや消化不良の感が残る。この違和感の出処を考察するに、マルチバースの物語において明白な悪を置くことは非常に話をややこしくするからではないだろうかと考えた。マルチバースという観念自体、様々な人の様々な過去の選択の積み重ねによって現行の世界が形成されていて、それに「良い」も「悪い」もなく、現在の自分たちを愛そうではないか、といった、善悪の概念から止揚した視点を持ったものであると解釈している。その中で、「古い考えや口うるさい親に縛られてグレた娘」(これは現行世界でもアルファ・バースでも同様の構造になっていると捉えられるだろう)に「悪」のレッテルを貼り、それをアルファ・バースという「先進的」(マルチバースにおいて他の宇宙と比べて先進的だという観念も違和感が残る)なマルチバースの指示に従って立ち向かうというのは、マルチバースという題材からみてもマッチしない。
そうであれば、勧善懲悪のストーリーとして娘を倒すことを目的とするよりも、母による懺悔や娘を懐柔することによってカオスの発生を抑えさせることを一貫した目的とした方が、ストーリーとして消化しやすかったのではないかと思わずにいられない。最終盤にはそのような落とし所に持っていっていたように思えたが、結局そうするのであればカッターで娘を殺すようにけしかけるシーンの違和感が拭えない。加えて本作は素晴らしい映像体験を与えてくれるものだ。ストーリーでの消化不良は映像体験にとってノイズになっているように思われてならない。
さらに補足的に言えば、意識レベルに流れるアジア人に対する偏見もキャラクターデザイン段階で見られるのではないかとも感じてしまった。古風な思考様式を持ち出してくるのは中国語しか話せない中国人の祖父。理解しているといいつつ(同性愛への理解に関しては)父や(税務のルールへの理解に関しては)言葉の不得手を武器に決断を逃げる移民1世の母。これってアメリカに住むアメリカ人から見てどうなんだろうか。これって中華系のキャラデザである必要があったんだろうか。なんてことも考えてしまった。
まとめるとすれば、見せたいものがたくさんあるのに筋書きの中心が勧善懲悪になったり親子の絆の再建になったりで視点が安定せず、楽しみ切れなかったという感じだろうか
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