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産声

薄暗い部屋の隅で、男は高らかに笑った。
何もめでたくなく、何一つ面白いことが起きたわけでもないのに笑ったのだ。
何も起きなさすぎる自分の人生が滑稽に思えただけではない。
一日たった一度でも笑い声をあげることで、小さく前進した気さえしたのだ。
日々毎日、刻々と生まれ変わる自分の人生を想像しながら、
具体的な行動を起こせずにいる男は、毎日眠りに着く前、           明日は何か良いことがありますように、と静かに願い眠りに着くのだ。     朝目覚めて窓を開け、晴れの日はもちろん良く、近所の子供たちが騒がしく遊ぶ声を楽しみながら、もの思いに耽ける。雨が降る日には、こんな悪天候の日は何もしない方が良いに違いないと、それはそれで一日が過ぎていくのである。

思い返せば逃げ続けてきた人生だった。                   男は仕事からも家族からも女や友人からも、社会との接触からも逃げてきた。  そんな男に転機が訪れた。コロナ禍で、社会と接触しないことをヨシとされたのだ。

男は生まれ変わることにした。
パンツを脱いでベランダギリギリの手すりに寄りかかり、
両手を広げた状態で、ちんこを二回ほど回転させてみせた。
しかし、築50年を越えるアパートの手摺は思った以上に頼りにならなかった。
バランスを崩し落ちそうな気がして、男は全裸で女のような声を上げた。
見下ろすと、近所の住民と思われる買い物袋を持った、
パーマをあてた中年の女性が眉間にしわを寄せ、こちらを見上げている。
男は慌てて部屋に戻り、何日も干していない布団にくるまった。
男はまた少し笑った。ほんの少しだけだが、生きている心地がしたのだ。
全身をミノムシのように布団に包まれ、男は眠りについた。

目を開けると、太陽に日焼けをした女が自分を覗き込んでいた。
男の好みの深い谷間と張りのある乳が、白い水着から溢れ出しそうである。
男は勇気を振り絞って女を見つめた。
すると女は立ち上がり、いたずらそうな表情を浮かべ立ち上がった。
綺麗な割れ目に食い込ませた、小さいサイズの布地。
太陽の光で染まった見事な茶色い髪、美しいくびれと大きめのお尻。      足首はキュッとしまっている。
男はマンマミーヤ!と叫んだ。
立ち上がって女を追いかけようとすると、全く身動きが取れない。
下を見ると視線の先には砂浜が広がっていた。
男は縦に、直立不動の状態で砂浜に埋まっていたのだ。
潮が流れ、男は溺れた。

再び目を開けると、蛍光灯がチカチカする変わりない部屋にいた。
昼に見た短い夢だった。

男は笑った。                               身動き取れない砂浜の方が現実の世界よりよほど楽しそうだと思ったのだ。   

のそっと立ち上がった男は額に汗をかいていた。               今年もむさ苦しい程に暑い、日本の夏がやってくる。

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