バンドと中央線
私には好きな曲がある。
この2曲だ。
この2曲には1つ共通点がある。それは、どちらも中央線について歌われているという点である。中央線とは東京駅から高尾までを結ぶオレンジ色の電車だ。かくいう私も中央線ユーザーである。そのため、この2曲には思う所がある。それについて書いていこうと思う。
素晴らしい日々
素晴らしい日々は時速36㎞によって書かれた曲であり、「最低のずっと手前の方で」に収録されている。
時速36㎞は私の大好きなバンドだ。初めて「ハロー」を聴いた日から今までずっと私の生活を支えてきた。そんなバンドなのだ。彼らが歌う曲はどれも生活に密着した苦しさ、悲しさ、小さな喜び、それらに基づいている。最近のバンドにはない、温かさ、辛い時に背中を押してくれるというよりは肩を抱いて悲しさを共有してくれる、そんな魅力がある。
ベース、オギノテツの書く歌詞は詩的で現実的だ。
1節目「嫌になって飛び込んだ列車」はまさしく、人生に絶望し、列車に身を投げ出して自ら命を絶つことを表しているだろう。
ここでは1節目には鍵括弧がついているため、語り手が命を絶ったということではないと推察できる。つまり、そうした情報を見聞きしたのである。
昨今、XをはじめとしたSNSで自殺をほのめかす投稿をしばしば見ることがある。彼らはみな「嫌になって」そうした行為に及んでいるわけであるが、この曲の場合、嫌になることは人生に絶望することすらない、ただただ空虚な日々が待っていることである。筆者にもそうした経験がある。半年前まではひどく忙しかったのに、そんな忙しい日々が終わったとたん、自分が何をしていいかわからない、そんな空虚な経験である。そんなある種の鬱体験を時速は歌っている。
ここで言う長い道とは実質的な距離ではなく、体感的な距離の話だろう。
学校に行ってバイトに行って、はたまたもう社会人で働いているかもしれない。それらが終わって家に帰るまでの間、それは本当に長い。向かってるときはあんなに短いのに。
2節目は非常に共感できる。新宿から中野、高円寺と下っているとき、きらびやかな街から住宅街に移るときに窓に映るのは光る街である。それは先にあげたきのこ帝国、あーちゃんが記事で語っている。
切符に踊る青い春の文字
非常に詩的である。ここで次節に目を移すと、そこに待っているのは街の星。どちらも詩的な表現であるが、街の星とはある種現実的表現ということができる。美味しんぼのオープニングも言ってた。
明かりは街の星と称されるように綺麗なものかもしれない。しかし、そこには各々の生活がある。楽しいかもしれない、苦しいかもしれない、そうした要素が街の星には含まれているのである。それは時速も同様に歌っていることである。
中央線
それがいいとは断言できない日々が中央線を通じて表現されている。
これは時速36㎞「素晴らしい日々」でも一貫して語られている。
そうした最上とは呼べないが、最低とも呼べない日々のモチーフとして中央線は語られている。筆者の経験であるが、中央線に乗っている人は皆死んだ顔をしている。それは通勤に使われることが多い線であるからであろう。
家と学校、会社との行き来というレールの上を進む日々は、素晴らしいとは言い切れないかもしれない、だからと言って死にたいわけでもない、そんな嫌でもない日々が中央線に乗る人々には待っているのである。
たまには総武線でのんびり帰る日があってもいいかもしれない。
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