ぬるま湯をかき回せ
当方は音楽家であり、美術家ではないのだが、美術大学なる場に職籍を置いている立場上、「美術」という言葉については平素から意識せざるをえない。
なにしろ「美」の術だ。
世間では、何かすばらしく美しいものをつくる技術だと、なんとなく思われている場合が多いのではないだろうか。
個人的には、美術の最も大きな役割は、常識のような顔をしてふんぞりかえっている「美」という概念を問うことにあると思う。
「みんなは美だと思っているようだけど、それって本当に美?」「こちらの方が美じゃない?」「誰も気づいてないようだけど、こんな美はどう?」と、無限に問いを投げかけること。
閉じた共同体の中で「これって美しいよね」「いいね」「みんな同じ考えだよね」と言い合ってるだけの状態が長く続くと、ぬるま湯のような快適さの中で、次第にいろんなものが腐っていく。
だから、共同体を健全に保ち続けるためには、規範になじめない少数者、突拍子も無い事を始める変人、外からまぎれこんでくる異邦人…… ノイズや異物のような存在が時々現れて、この「ぬるま湯」をかき回してくれる必要があるのだ。
けれども「かき回したって無意味」「自分だけ目立ちたいのか」と、かき回すのをやめさせようとする人数の方が、世の中には圧倒的に多い。せっかくぬるくて気持ち良いのに、なぜ今の状態を変えなくちゃいけないんだ、と。
だが共同体が、あらかじめ「美しい」と示し合わせたもの以外は「美しくない」と決めつけ、排除し始めたなら、それは「ぬるま湯をかき混ぜる」ことをやめる宣言だ。長期的には共同体自身を腐らせることになる、緩慢な自殺行為だ。
「美」の多様性が殺される時、「美」以外のあらゆる多様性もまた、じわじわと絞め殺されていくことは、歴史が証明している。
ぬるま湯をかき回せ。
(2017.6.27)
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