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仙台育英高校の甲子園優勝に寄せて〜私の経験をエッセイ仕立てに〜

仙台育英高校

 2022年8月22日、100年あまり続く夏の甲子園の歴史が動いた。
東北勢として悲願の初優勝。古くは旧制秋田中学、以降数多くのみちのくの兵どもが挑み破れてきた深紅の大優勝旗がついに白河の関を越え東北の地に渡った。
 成し遂げたのは宮城県代表仙台育英学園高校。2001年、2015年と決勝で惜しくも敗れた高校が3度目の正直で栄冠を手にした。

 宮城県では知らない者がいない程のマンモス校でありスポーツの超有名校。一時は不祥事も多く、批判の的であった時期もあったが、2018年に前任の佐々木順一朗監督が辞任し、後任として就任したのが須江航監督だ。
 中学軟式野球界では全国優勝を成し遂げその名を轟かせていた名将の突然の就任。チームは当時不祥事によって謹慎中であった。そんなマイナスからのスタートから4年、夏の甲子園を制覇するまでにチームを育て上げた。監督としてはまだまだ若い39歳。そんな彼に私が出会ったのは13年前。彼が26歳、現在の私と同い年の頃だった。

きっかけ


 2007年夏。当時小学5年生だった私は夏休みの自由研究として甲子園大会のスクラップを作成していた。テレビを見ながらスコアをつけていた最中1人の選手が目に止まる。灰色を基調とし、紺色で金に縁取られたIKUEIの文字、そして左肩に燦然と輝くライオンの校章。そんな王国騎士団のようなユニフォームを纏い150キロを超えるボールをズバズバと投げ込み躍動する背番号1。のちに東京ヤクルトスワローズにドラフト1位で指名される佐藤由規投手だ。
 彼の甲子園一球目を見てから、私はスコアをつけるのも忘れ虜になった。当時少年野球で投手だった私はすぐに彼の投球フォームを真似、いつか自分も彼のようにIKUEIのユニフォームを着て、150キロを投げるんだ。そう夢見るようになった。
 チャンスは思ったよりすぐにやってきた。仙台育英の附属中学にあたる秀光中等教育学校(現仙台育英学園中学校)への入学を親が勧めてくれた。当時の同校はあまり野球に力を入れておらず、どちらかというと大学進学を見据えた進学校的な存在であった。私の親的には大学進学を視野に、地元の公立では得ることのできない経験を積んで欲しいとの考えがあっての勧めであったのだろう。(現に寮生活や東北随一の都市仙台近辺での生活、音楽で吹奏楽を扱ったり、修学旅行が海外であったことが魅力でもあった。)しかし私にとても魅力的に映ったのは高校と同じ灰色のIKUEIユニフォームを着て野球ができることだった。さらに噂によると甲子園準優勝時の育英OBが監督に着任したらしい。私は二つ返事でここへの入学を決意する。パンフレットには野球は中学から始め、ルールも曖昧、打ったらサードに走ることもあるけれど一生懸命頑張っていますの文字。強豪で年功序列、3年まではベンチに入れない1年は声出し、2年は3年のバックアップと聞いていた地元の公立中と異なり、あわよくば1年生から試合に出れるかもしれない。そんなMAX  COFFEEよりも甘い考えはすぐに打ち砕かれることになる。

挫折


 1月の入試を終え、2月に合格通知が届き、3月、さらに一つの案内が届く。

「野球部練習体験会」

 レベルはあまり高くないと聞いていたが、入学前に体験会を開くとはやはり私立は違うのか、地元の公立中では考えられないことではあったが、ここで見初められたらもしかしたら1年春からスタメンなんてこともあるかもしれない。身長164cm体重70kg、地元では体格で負けることは数少なく、球の速さと打撃には自信があった井の中のヒキガエルだった私は期待を胸にその体験会に飛び込んだ。
 グラウンドに着くと優しそうな先輩達が出迎えてくれた。なんだか体格(特に太もも)はいいけど、とても優しそうでよかった。そう思っていた。
 練習が始まるや否や能力の差に愕然とした。全力で走っても置いていかれる集合ラン、誰1人として手を抜かないダッシュ。平気で100m以上遠投するキャッチボール。テニスコートの遥か向こうに飛んでいくフリー打撃の打球。軟式特有の難しいイレギュラーを難なく捌くシートノック。間違えて高校の練習会に来てしまったのかと錯覚するような先輩達のプレー。そして先ほどまで優しかった先輩達の表情が一変、獲物を今にも狩ってやろうかというような野生動物のような顔つきになり、腑抜けたプレーに容赦なく飛び交う怒号。野球をしていて初めて覚えた恐怖という感情を今でも忘れることができない。
 それでも、あれは先輩達だ、中学生は一番体格の差が開く時期、同級生なら多少は…と新入生を探す。
…いた。そこには先輩達と異なるユニフォームを着て比較的線の細い子達。これから一緒にレベルアップしていくであろう同期達が先輩に負けず劣らずのプレーをしている…初期能力レベルが違った。サードからノーバンで投げるだけで褒められるであろう少年野球レベルの私が同期の矢のように鋭く低目から伸び上がってくる送球を捕球出来ず顔に当てのたうち回るまでそう時間はいらなかった。
 先輩から氷をもらいベンチに座っている間、練習を見にきていた保護者の方から衝撃の事実を聞いた。
・2年程前から東北各地のスーパー小学生達をスカウトして特待生として迎え入れていること。
・この年から特待生枠、スカウトを増やし、私の同期は私以外が特待生か、特待生ではないものの監督直々に声をかけられた選手であること。
・この年は特待生制度が始まって3年目の集大成の年であるから特に熱が入っているとのこと。
 他にも今のエースは140キロを投げることや同期は楽天Jr.や仙台市選抜等の選りすぐりのメンバーであることなど色々と伺ったが頭には入ってこない。レベルが違い過ぎる…。初の練習で痛いほど自分の才能のなさを痛感した私はそれでもなんとか食らいついてやろうと4月、入学と共に野球部に入部し、初の大会を迎えた。私の背中に背番号はなかった。

名将(鬼)との出会い


 入部前から一般枠(中学でこの言葉があることに驚いたが)で唯一入部した県外出身者の私を優しく迎え入れてくれたのが前述の須江航先生、当時26歳の若くエネルギッシュな指導者だった。
 慣れない寮生活をしながらこの先生に認められて、絶対試合に出るんだ。私はそう決意した。
 しかし、そんな優しそうな青年監督を鬼に変えるのにそう時間を要さなかった。
 私は生来、今現在もではあるが、寝坊癖があり、忘れ物が多かった。現在であればADHDと診断されているであろう。そのくらい落ち着きがなく、注意力も散漫であった。朝練に遅刻する、遠征にスパイクを忘れる、試合中余所見をしてボールが当たる事もあったそんなことを繰り返しているうちに徐々に先生からの信頼を失っていった。最初はその都度先生にはこっぴどく叱られたものの、次第にもういいよ、何回目だよ、という単語が増えてきた。能力が低いながらも体格の良さに期待され、練習試合での代打やワンポイント登板など雀の涙程のチャンスも次第に消え、ノックのメンバーから外されることもしばしば。そしてついに全体練習から置いていかれることが多くなった。

 「寮生活に慣れてないから」「そもそもの能力に差があるから」「チャンスが平等に与えられないから」次第に心の中には他責の念で埋め尽くされた。毎日書いて、毎週提出する野球ノートもそぞろな気持ちで書いていた。そんな私を須江先生は見逃さなかった。ある日、返却された野球ノートには赤く綺麗かつ力強くページ一面に書かれていた文。

‘‘親元を離れて大変だろう、能力の差が大きくて辛いだろう、そうやって自分を納得させてないか?野球ノートの字も汚ければ質も落ちている。本当に毎日書いているか?私生活は大丈夫か?お前と同い年の仲間はもっと周囲を見ている。同じように寮生活をしている奴もいる。能力の差は関係ない、もっと周囲を見ろ。自分に甘い。試合に出なくとも、ノックに入れなくとも、他の奴のプレーを見れば気づく点はいくらでもあるはずだ。今のお前のままではチームには必要ない。試合にも出せない。野球だけじゃない、周りを見て、自分を見て、気づいたこと考えたことを記せ。このノートはただの事実を書く物じゃない。必要とされる人材を目指せ。’’

 全て見抜かれていた。当時は今の自分でもびっくりするくらいネガティブ思考でどうせ自分なんか…と卑屈になり、他の上手な選手の影での努力も知らず、才能があって良いなあと妬む。どの分野においても組織にマイナスの影響しか与えない人間に成り下がっていた自分に対し、中学1年生に対しては少々厳しい言葉ではあるが、発破をかけたのだ。
 その日から私は野球ノートの一番最初に「必要とされる人材へ」と赤字で大きく書くようにした。時に内容の薄さやそれに対し自分はどうなんだと指摘される事もあったが、野球だけではなく学校生活や私生活においても周囲を見て、人を見て、気づいた点、野球に活かせそうな点を書き連ねた。
 その後も忘れ物や遅刻はあったが、私はスコアラーのポジションについた。冒頭に書いたように自由研究にスコアブックを書くくらい私は野球のスコアブックを記録することができた。練習には参加するものの、試合となれば先生の横に座りスコアをつけながら、球数やカウント等を伝える。公式戦となれば次に対戦するチームの試合を見ながらデータを集める。元々選手のクセやデータ収集は得意だったため性には合っていた。もちろんスコアラーをしながらも叱られることはあったが(今となってはスコアラーやりながら叱られるのは一種の才能なのではないかとさえ思う。)、次第にチームメイトからも収集したデータや打撃時のクセなどを聞かれるようになり、気づいた点はどんどん発言した。中学生であった事もあり、最初は自分よりずっとヘタクソな私に色々言われるのが面白くないと思う人もいたが、さすが須江先生の教えを受けている選手達だ、徐々に素直に聞き入れてくれる人が多くなった。必要とされる人材。現在では集団より個が優先される時代となり、自分を優先しよう、誰かのためじゃない、自分のために生きようと声高々に叫ばれる時代になった。しかし今でも私は自分が所属している組織やコミュニティに必要とされているかを常に考える。例え誰も気にしてなくても、その瞬間だけであっても、自分が必要とされてないと感じると少しの気持ち悪さを覚えてしまうくらいだ。
 個が優先されるような時代になっても、人は個人だけでできることには限界がある。必ずと言って良いほど集団の中で生きる生き物であり、その中で必要とされる人材となることは周囲を見て何が必要とされているかを考え、それを提供し、結果からフィードバックしてまた周囲を見る。そのサイクルをこなさねばならず、実行するには少なからず努力が必要だ。時に自分を犠牲にすることもあるだろう。大人になった今、必要とされる人材となることの難しさを改めて感じる。まだまだ幼い私を子供扱いせず、向き合った結果が上記の言葉なのであろう。当時の先生の年齢となった今の私が中学生にこのような言葉をかけられるか。私はまだまだそこまでできた人間ではないなと実感する。

転機


 2年生になり、後輩が入ってきた。もちろん宮城県内県外の有名選手達が入部してきた。中にはその後甲子園準優勝投手としてプロ入りする選手もいた。私は試合のみならず練習でもブルペンキャッチャーやバッティングピッチャーといったいわゆる裏方としての役割が増えていった。最初はそれでよかった。ブルペンで後にプロ入りする選手の球を受ければ、つい何週間か前までランドセル背負ってたのが嘘かのような速球に、鋭く曲がる変化球。バッティングピッチャーをすれば、5m手前から全力で投げたボールがピンポン玉のように遥か彼方へ飛ばされる。日本にはこんなに沢山のすげえ奴らがいるんだ。まるで場違いな衣装で舞踏会へ来てしまった町娘のようにキラキラとした目で後輩達を見ていた。本来ならベンチ入りの座を争うライバルとして悔しがらねばならないはずなのに、試合でいいピッチングをしたり、シート打撃で自分の投げた球を弾き返されたりしたら素直に褒め、賞賛した。自分の実力ではライバルどころか視野にも入らないレベルで実力差があるのだ。すでに牙は抜かれたも同然。ただ後輩達の活躍を喜ぶ毎日を過ごしていた。
 そんな日々を過ごすこと1か月、中学2年生のGW。一つの大会が終わり、長めのオフになったため、実家に帰省した際、親父とキャッチボールをした時のこと。
 化け物級に上手い後輩達が入ったことを嬉しそうに話しながらキャッチボールをしていたと思う。ちょっと強めにボールを投げたとき、それを受けた親父がポツリと言った。

「育英じゃなければ試合出れたかもしんねえなあ。」


 ほんと聞き取れるかどうかの声量ではあったが、私の心には重い瓦礫が降ってきたかのようにズシリと響いた。親父が少し寂しげな表情で投げ返したボールを受けた時、私は泣いていた。
 グラブやスパイク、ユニフォームと決して安くはない道具を買い揃えてくれて、自分の息子がほとんど試合に出ないと分かっていながら、仕事が休みの日に試合があれば観にきてくれ、試合が終われば、試合に出ない息子に不満を言うことなく、好きなものを食べに連れて行ってくれた。そんな親父が少しだけ漏らした本音がその表情と一言に現れていた。本当は息子が試合に出て活躍する姿が見たいはずだ。不甲斐ない自分の現状と親父への申し訳なさで心がいっぱいになり気づいたら涙を流していた。
 後輩の活躍やチームが勝ち上がることはもちろん嬉しかったが、試合に出たい、野球がしたいという思いは完全に消えてはいなかった。
 明くる日、私は家が近い幼馴染を訪ねた。幼馴染は地元中学野球部の次期キャプテンで小学校では一緒にプレーした仲だった。私が新チーム始動直前(ちょうど中総体が始まる直前である)にチームに加わることの是非を聞いた。もちろん私は地元中学では下積みを積んでないし、いきなり来て早々試合に出ることを面白く思わない人もいるだろう。(もちろん転校してすぐ試合に出れる確証はないのだが、前述の通り年功序列であったため最高学年は試合に出場する可能性が高かった。)もしあまり良い返事が返ってこなければ、野球部には入らず地元のシニアチームに入団も考えていた。しかし、返ってきた返事は予想以上だった。ぜひ一緒にしたいと言ってくれるチームメイトが多いとのことだった。(もちろん地元なのでほとんどが顔見知りではあったのだが)これで転校することの決意が固まった。
 それから寮に戻り、GW明けすぐに須江先生に相談した。ただし正直に試合に出たいからやめますと言えるほど当時の私はメンタルが強くなかった。元々中学1年生の頃から整形外科医になりたいという夢があったため、それを利用した。入学時は学年3位の成績だった私の学力は寮生活や野球に時間をつぎ込んだ事もあり急降下していた。その環境を変え、医師になるため、夢を叶えるため地元に戻りたいと伝えた。
 多分当時の須江先生は私の高いレベルの競争から逃げようとした甘い甘い考えを見抜いていたとは思う。しかしそのことを言わず、夢について聞いてくれた後、応援してくれた。転校の時期が決まり、チームメイトに初めて転校することを公表する日、須江先生はみんなの前で、「同じ目標を、日本一を目指す仲間が離れるのはとても寂しいし、辛いことだけど、遠く離れたところに行く訳じゃない。こいつはこいつの夢を、お前達はお前達の夢を追っていれば、必ずどこかでまた会えるし、また会ったときにお互い目標を叶えていられるようにお前達も応援してやってくれ、もちろんお前もチームを応援してやって欲しい。」私は本当の理由を言わなかった後ろめたさから下を向いていたが、ふと前を見てみんなの顔を見ると、何人かは泣いていた。その時、このチームでの短いけども密な1年半が走馬灯のように脳内を駆け巡った。ヘタクソで一時は必要ないと言われた私を鼓舞し、一緒に走ってくれた仲間、特に同じポジションでよく一緒に言い合いをしながら練習した同期や、出身地が近く、同じ寮生として弟のように可愛がってくれた兄貴的存在の先輩が泣いているのを見て私も泣いてしまった。
 こうして、須江先生から沢山のことを教えてもらい、今後の人生でも大切にしている考え方や、その後の私という人間形成に大きな大きな影響を与えた1年半は幕を閉じた。

開・啓・拓 念ずれば花開く



 後日、秀光中最後の日、グラウンドに挨拶に行くと、チームメイトから寄せ書きをもらった。そこには仲間からのアツい言葉と共に綺麗かつ力強い字で「開・啓・拓 念ずれば花開く、諦めるな、俺は日本一の監督になる 須江航」と書かれていた。これをもらった時から今まで、引っ越しをしても私は机にこの寄せ書きを飾っている。高校受験時も、大学受験時も、留年のかかった大学の試験勉強も、卒業試験時も、そして医師国家試験時も、どんな時も目に入る場所に置いてきた。辛い時や諦めそうになった時はもう一度彼らが書いてくれた言葉を読み返す。当時中学生だった子達が書いた一言一言がどんな大人が発する言葉よりも私を奮い立たせてくれた。
 開・啓・拓、全て「ひらく」という読み方がある「開く」は物理的に開けることの他、花が開く、より良い方向へ向くように努めるといった意味がある。「啓く」は知識を授ける、啓発すること、「拓く」は未開拓の場所を利用できるようにすること。この言葉は練習中に常に掲げられていた幕にも書かれていた。このような言葉を掲げられることが、果たして今、当時の先生と同い年になった自分が発信できるか。おそらくできないだろう。私はこの寄せ書きを見た時、もうブレてはいけない、必ず夢を叶えると心に誓った。
 時は経ち、2014年私は高校3年生になっていた。心血注いだ高校野球も引退し、受験生となった頃、一報が入る。須江先生率いる秀光中が全中制覇を成し遂げたのだ。本当にあの寄せ書きの通り日本一の監督になったのだ。転校してから須江先生とは連絡を取ってはいなかったのだが、ニュースの写真越しに「俺は夢を叶えたぞ。お前はどうだ?」と言われているような気がした。これに発奮しないわけにいかない、私は医学部に入学し、なんとか夢のスタートラインに立つことに成功した。
 さらに時が過ぎ2022年。私が医師国家試験に合格し、研修医として働いて2年目のこと。須江先生は仙台育英高校硬式野球部の監督として夏の甲子園大会を制覇した。同校、県勢、東北勢、そして全中制覇監督として初めて全国の高校の頂点に立ったのだ。私が夢を叶える前に先生が二度目の夢を叶えてる姿を外来の待合室のテレビの前で見て感動のあまりつい吹き出してしまった。先生は26歳の時に言っていた言葉通り、本当に100年以上開かずの扉を開き、全国の中学高校野球界に啓き、新たな道を切り拓いてきた。そんなアツい男の優勝監督スピーチは今後未来永劫語り継がれる名スピーチであった。
 私も来年度から晴れて整形外科医になる。歩んできた中で夢はどんどん増えて行ったが、中学生当時の整形外科医になるという夢がもう少しで叶いそうなところにきている。彼が、夢を叶えろ、俺も頑張るから。と送り出してくれた年齢に追いついた頃、私も一つの夢を叶えていることだろう。夢を叶えてからが大変であることは重々承知である。特に昨今、医療は何かと取り沙汰にされ、昔に比べ世間が医療を見る目は厳しいものとなっている。長時間の激務や度重なる当直業務、現場を見ていないお偉いさん達が形だけ設定した働き方改革によって激務は変わらないくせに賃金だけが減っていく。そんな厳しい世界に飛び込むが、もうブレないだろう。辛い時は変わらず、須江先生初め当時の仲間が書いてくれた寄せ書きを読む。そしてまた奮起し、今度は新たにできた目標に向かって頑張るだけだ。
 整形外科医になった時、私は須江先生に手紙を書こうと思う。たくさんいる教え子の中でも関わりは非常に薄いことは自覚しているし、さらに甲子園優勝監督だ。多忙に違いない、返事が返ってくるとは毛頭思ってもない、もしかしたら読まれすらもしないかもしれない。でもあなたの教えが、言葉が、随分と甘ちゃんだった私を高校球児として、医学生として、そして医師として折れないメンタルを作り上げ、夢を叶えたことを伝えたい。

終わりに



 仙台育英の優勝に寄せた割に、少々自分語りが過ぎたかもしれないですが、この時の感情を文章として形にしておきたかったという思いから徒然なるままに書きました。ここまでの長文を読んでいただいた優しい方々に感謝いたします。
 事実に則って書いておりますが、所々フェイクを入れております故、話の整合性が合わないところがあるかもしれないことご了承ください。
 また、巡り巡ってこのnoteが当時の関係者の方々の目に触れた際、不適切な描写等あれば連絡いただけると幸いです。その際は該当箇所を改変いたしますのでよろしくお願いします。「あ、こいつ当時こんなこと思ってたんだ」とか「こいつ今こんな感じなんや」とか思いながらどうか温かい目で見守ってください。
 最後に、時代も時代だったため、現在では色々批判されるようなこともありますが、私は自分の経験を他人に押し付けたりはしませんし、あくまで私にとっては人間形成に大きく役立っていると体感しております。後悔もほとんどないのでそこんところよろしくお願いいたします。

じゃ、また。

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