音楽的エッセンス
<音楽的エッセンス>
小蕪亭二日目のコンテンツをyoutubeにアップするために、聴き返していたのですが、あまりに「優しさ」が溢れた音楽なので、自分で驚いてしまいました。
そうか〜〜 私の音楽は優しさに溢れている。汗
これって、自画自賛をしているのではなく、本当に今までそんなに自覚はなかったのです。
多くの方から、確かにそうは言われるけど、、、
(みんなダマされるわけだよな〜)と思わざるを得ませんでした。汗
なぜなら自分は「優しい音楽」を演奏したくて音楽をやっているわけではないのです。
私は、音楽の価値と感じる、ある音楽的エッセンスを注ぎ込みたい、表出させたいと日々思って演奏しているわけです。
音楽的エッセンスとは、情緒的な表現を指していません。
「優しさ」や、あるいは他のあらゆる感情、例えば「悲しさ」「怒り」「孤独」「喜び」などなど、これらの情緒感は表現の表面にすぎないわけです。
いや、もちろんこれらの情緒表現はとても大切なものではあるのですが、、、、
音楽表現には情緒感が伴うけど、それが表現の目的ではなく、結果なのです。
優しさや喜びや、さまざまな情緒表現の「説明」のための音楽は、私が求めているものではないのです
私は演奏中、ある音楽的エッセンスを実現するために、集中し、意識を無にして、ある音楽的意識状態を体験しながら、音の流れを追っているのです。
そして結果的にそこに「優しさ」が表出されるかもしれませんが、、、
それは結果の一部に過ぎないのです。
では、音楽的エッセンスが、演奏に実現された時、それは聴く人に何を起こさせるのだろう。
それは聴く人それぞれの体験なので、私がどうこう云うことではないですが、、、
ただ、言えるのは、私が求めてやまない音楽的エッセンスが実現できたなら、それは「私自身をしてその音に惹きつけられて、魂が震えるような体験を引き起こすだろう」ということ。
結局私にとってオーディエンスとは、まず最初に他ならない私自身なのです。
そして、もし私がそれを聴き取れるなら、つまりその音楽に私が求めているものを刻印することが出来たなら、必ずそれは聴く人たちに受け取ってもらえると云う、音楽と聴衆への信頼もあるわけです。
もちろんそのエッセンスは私の個人的な所有物ではありません。
20代の前半、私はある特別な音楽には、何か目に見えない、揺るがない本質的なエッセンスがあると気づいたのです。
衝撃的な気づきでした。
音楽の根幹に出会ったのですから。
それはマイルスデイビスのひと吹きであり、ビルエバンスやキースジャレットのひとフレーズであり、ミケランジェリのアダージョにそれは宿っていました。
彼らの音に、魂を鷲掴みにされ、震撼し、感動で涙が止まらなくなったのです。
いや、彼らだけでなく、実にたくさんの素晴らしい音楽には、そのエッセンスが宿っています。
そのことに気づいて以来、私は音楽を通して求めているものはそのエッセンスの獲得と実現になりました。
ある「魂のたかみ」を演奏という行為によってのみ、実現する何か、、、
そのある目に見えない、演奏という次元に出現する価値なのです。
もちろんマイルスやエバンス、キースたちと同じところに辿り着いたなどと、よもや思ってはいません。
でも彼らが実現した価値に少しでも近づきたい、その一心なわけです。
音楽を演奏する限り、音楽にそのエッセンスをどれだけ注ぎ込むことが出来るのか、実現することが出来るか、それしか考えていないわけです。
その音楽のエッセンスに出会って以来、今日までその想いは微動だもせず私の意志としてあり続けています。
余談ですが、アーティストの表現と、そのアーティストのパーソナリティは、果たして一致するものであるか?と以前、書いた覚えがあります。
作品と本人との乖離は一体なにものなのだろうか?
これは、例えば本人の自己イメージと、本人の本質が果たして重なっているのか、というある意味心理学的なテーマです。
今、私が言えることは、もしその二つが乖離、あるいは重なり合わないのであるなら、それは本人が一番苦しむだろうということ。
それは彼らがアーティストだろうが、そうではなかろうが、同じです。
自己イメージと自己の本性との乖離は、苦しみをもたらす。
さまざまなアーティストを見ていると、それが一致している人、一致しない人がいて、面白いですよね。
もう一つ、余談ですが、最近、私の音楽を聴いてくれた方から、
「静かで刹那さを感じる
演奏の中に
ウォンさんの年輪の深さや
優しさだけではない
研ぎ澄まされたエッジ
や激しさを想いました」
とメッセージをいただき、何かとっても嬉しかった。
ありがとうございます。
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