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<バッハとラベルのフーガ>

<バッハとラベルのフーガ>


 人生というものが長いのか、短いかわからないけど、その中で自分を支え続けてくれる音楽って、結局そう多くはないんじゃないかな~~

要するに自分にとって一生涯通して聴き続ける音楽のこと、、、


 逆に、ある一時期盛んに聴いたけど、年齢が経って、もう聴かなくなった音楽というのもある。

その時期、時代の感性なり、気分にマッチはしていて、つまり成長のある時期に特定的に必要な音楽、今は自分の魂を支える必要がなくなった音楽、とでも言うべく音楽はかなりたくさんあった。

もう懐かしい思い出としてしか聴くことがない。


 でも、生涯を通して魂を支え続けてくれている音楽って、そう多くないよね。

その中でもバッハの平均律クラヴィーア集の、特にフーガ、とりわけ遅いフーガは、私が旅立つ寸前まで聞き続けていたい。

私がいつも聴いているのはバレンボイムの演奏だ。

グールドやリヒテルが好きな友人は、なんでバレンボイム?というけど、彼の演奏は比類ないと思ってる。

彼はロマン派のピアノ奏者として有名だけど、ほとばしる情緒性を抑えた演奏(しかし抑えようとしても溢れ出てしまうんだけど)は格別の味わいがある。

そもそもがチェンバロの音楽だからと言って、あたかもチェンバロ的に、抑揚の抑えた音楽って伝わってこない。

(脱線しちゃった。)


私が書きたかったのは、フーガは至高の音楽だということ。

ご存じのように、フーガは多声の音楽だ。

いくつかの声部に別れた旋律が同時に流れていく。

一つのメロディーが奏でられ、他の声部がそれを追いかけるようにして、同じメロディーをキーを変えたり、音程を変えたりして奏でられる。

それがさまざまに和声進行が展開されながら、さまざまに変容しながら、それは繰り返され、そして全体としては、メロディーという気泡が、一塊の大きな雲のように形作られている。

それは本当に目眩く、光の乱舞のよう。


とりわけ、私は遅いテンポのフーガが好きだ。

なぜなら、時間軸も重層的になっていくからだ。

遅いテンポだと、4分音符、8分音符、16分音符、それぞれの音価の次元で、それぞれのメロディーの世界を作りながら、同時に存在することが出来る。


 それは例えば、電車や車に乗りながら、近景、中景、遠景を同時に見ているような状態だ。

車の窓から景色を眺めていると、電信柱や木々が眼前を飛んでいくけど、中景にある家々や畑や樹木はミディアムテンポで去っていく。

しかし遠景にある山々や空の雲はまるで動いていないようだ。

そのような全体的な展開は、自分が旅をし移動し続けていることの意味を体感させてくれる。


 私が「森羅の瞑想」で森を見上げるような動画を撮影しているのって、その効果がたまらなく好きだからだ。

一番間近にある葉っぱ、中景にある葉っぱ、そして樹木のてっぺんあたりにある葉っぱでは流れていくスピードはそれぞれで、しかも風が流れていて葉っぱが揺らいでいたりすると、もうそれは眩暈の世界!!!

そして葉っぱから漏れ落ちてくる細い光の線が、あたりの空気をかき回していたりすると、もう訳がわからなくなっちゃって、気が遠くなっちゃう。

遅いテンポのフーガにはそれがある。


 オーケストラ曲にそれほど魅力を感じないのは、あんなに大勢の演奏者がいるのに、フーガのような重層的な構造になっている部分って意外と少ないし、フーガが構成の

一つのパーツとして扱われいるだけだから、、、


 え?私がなぜフーガを演奏しないのかって?

私にはその能力はないよ。汗

一つのメロディーを歌うだけで精一杯。

だって、私には口が一個、声帯も一個、肺も一個しかない。

当然呼吸は同時に吸ったり吐いたりすることって、できないぜ。www


 私がフーガに開眼したのは、実はバッハじゃない。

ラベルの「クープランの墓」の二曲目の「フーガ」なのだ。

高校時代、ギーゼキングのラベル全集のモノラルLPを死ぬほど聴いた。

その中のギーゼキングの演奏するラベルのフーガは、ゆっくりで物憂い気だるさと、アンニュイさが漂い、他の曲とは一線を画していた。

それは孤独なハイティーンの私の魂を癒し続けてくれたのだ。

この曲も一生の宝物だな~

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