理想の暮らしを叶える家探し
2024年、理想の暮らしに合うお家を見つけるべく、旅、始めます。
これまで何度も引っ越しましたが、いつも衝動的でスピーディーだったので、なるべくしてそうなったという感じ。転々と住まいを移すわたしに友人は度々「今はどこに住んでるの?」と尋ねるのですが、それを聞かれると、自分の自由さや身軽さを感じて嬉しくなっていました。
定住・永住はあり得ない!と以前は思っていたのですが、今は、ここ!という不動の拠点を一つ作りたいという思いがあり、丁寧に新居探しをしようと思う今日この頃です。
これまでの住まい
子どもの頃は10歳までマンションで暮らし、その後、一軒家にお引越し。小学校・中学校・高校・専門学校を卒業するまで実家暮らし。
20歳の春、ニューヨークへのダンス留学をキッカケに一人暮らしを始めました。
一人暮らしデビューはアメリカ
初めての一人暮らしがアメリカというのは中々なチャンレンジ。箱入り娘とまではいかずとも、分からないことは全部母任せにしていたので、わたしはあらゆることにおいて無知で世間知らずでした。ちょっと英語が解る、くらい。渡米した2006年頃は、そこそこインターネットは普及していましたが、まだ駆け出しで今ほど便利ではなく、日本で充分に情報収集が出来ず、不安しかなかった。それでも行けたのは、留学エージェントのニューヨーク支部があったから。何か困ればそこに行けばいいと自分に言い聞かせ、それまでの人生史上最高に緊張して飛行機に乗り、ムリヤリ自分をアメリカに飛ばしました。
初めてのレジデンス(寮)暮らし
留学期間1年の内、最初の6ヶ月間は”レジデンス”という寮のようなシステムのお家で暮らしました。鍵付きの小さな個室、共用のシャワールーム・洗面スペース・洗濯スペース・冷蔵庫・談話室があり、カトリックの教会が運営している建物だったのでシスターさん達がお世話係。平日の朝と夜は食堂でビュッフェスタイルのお食事が出るのですが、昼と休日は自分で調達。門限があり、ちょっと不便ではありましたが、一人暮らし初心者のわたしには適していたと思います。
日本人も数人住んでいたので緊張がほぐれ、楽しく過ごせました。しかし、気に入っても滞在最長6ヶ月という期限があり、引っ越しはマスト。ニューヨーク市内にある日本の不動産屋さんに行き、幾つか物件を内見したのですが気に入るもの、母からOKが出るものがなく、新居は決まらないのに退去の日が迫る···。
焦る気持ちもあったけれど、やるしかなかったので肚が座り、粛々と毎日家探し。そんな中、立ち寄った本屋さん(BOOK OFF)の掲示板でアパートの空き物件情報を発見。問い合わせて見に行ってみると、大家さんが日本人で部屋も広く、学校にも通いやすい場所で母からもOKが出たので、無事、新居を確保することができました。初めて成し遂げた偉業に感動したのを覚えています(笑)
ニューヨークのアパートは基本的に家具付きなので、引っ越しはあっという間。当日は友人に手伝ってもらい、タクシー2回で自分の持ち物を運びました。(結構大変だった)
ニューヨークに発つ前は「海外で自分で家を探すとかムリ!!」と思っていたのですが、何とかなるもんです。人は、追い込まれると力を発揮するのです(馬鹿力?)
やらねばならぬとなったら、人はやる。20歳のわたしは思いました。だいたい何でも何とかなる。
ちなみに、渡米時はパソコンを持っておらず、留学エージェントの支部に通って使わせてもらっていたのですが、家やら何やらを一人で探すには持っていないと不便だったので、街にある日本の電器屋さんへ行って購入。まさか、わざわざアメリカでパソコンを買うなんてと思いました。旅でも暮らしでも、行ってみないと住んでみないと、何が必要か解らない。ニューヨークでの一人暮らしは、わたしに暮らしの知恵と工夫を山盛りくれました。海外といえど、ニューヨークには日本の食料品店、日本の不動産屋、日本の本屋など、英語が達者でなくとも何とかなる選択肢があって、ものすごく便利で有難かったです。
ニューヨークのアパート暮らし
留学後半の半年間を過ごしたアパートは、3室の鍵付き個室、台所とトイレ・バスが共用という作り。玄関が一つなので、いわゆるシェアハウス。建物の地下にコインランドリーとゴミ置き場。
自室には、クイーン~キングサイズのベッドがあり、そのデカさにビックリ。二人で寝てもまだ広い。そんなに大きなベッドがあるのに部屋は狭くなくて、テーブルとイスと小さな棚も設置されていました。
立地は、セントラルパークの北端、地下鉄の駅まで徒歩3分ほどで、学校へ行くのにも遊びに行くのにもバッチリでした。
レジデンスの時は、平日の朝晩食事が用意されていたので自分で作ることは無かったのですが(流しと冷蔵庫しかなかった)アパートで暮らすとなれば、食事は完全自炊。初めてのことでしたが、有難いことに日本食料品店やお弁当屋さんもあり、アメリカの食べ物も舌に合っていたので、特に苦労は感じませんでした。お弁当箱におにぎりと日本の冷凍食品を詰めて、学校に持参することも。共用部分はあれど、完全な一人暮らしの自由さはとても心地よかった。渡米最初の頃はホームシックで泣いていましたが、半年も経てばどこ吹く風、のびのび自由を謳歌。帰国後のわたしの決め台詞は「ホームシックはニューヨークに捨ててきた」でした。
日本での初一人暮らしは東京で
帰国後は、ダンサーとして活動するため、先生やダンサー仲間、劇団などが多く在る東京で暮らすことにしました。東京の土地勘ゼロの家探し。ダンスの先生に中野区をおススメされたので、中野区一択で、高田馬場の不動産屋さんに母と二人で訪れ、家探し1日目にして気に入る物件を見つけ、無事契約完了。西武新宿線の新井薬師前駅から徒歩10分ほどのアパートで、東京暮らしをスタート。朝早くから深夜まで、バイトにダンスの稽古にと若さ炸裂フルパワーで動き回りました。
中野区から練馬区へお引越し
新井薬師のお家に4年住み、そのまま住み続けようとしていた2011年の春、母に癌が見つかり、父は家事が壊滅的に不得手だったので、わたしが一緒に暮らして闘病のサポートをすることになりました。東京の病院に通いながら様々な代替医療で治癒を目指すと決め、二人で暮らせる広いアパートを探すことに。家探しも三度目なので手際・手順ともにスムーズで、練馬区のアパートに決め、お引越し。母との二人暮らしが始まりました。
東京から、大阪へ
母の闘病生活をサポートする傍ら、わたしは吉本興業のクリエイティブスタッフ養成の夜間学校に通っていました。ダンサーとして表舞台に立つ経験をして、今度は裏方の仕事を学んでみたいと思い入学。一年後の卒業時に、いくつもの部署の面接を受けたのですが、ことごとく不採用。もしやと思い、東京ではなく、大阪の部署(なんばグランド花月)の求人に申し込んでみたところ、あっさり合格。なんとなく、東京を離れるタイミングが来ているような気がしていたので、その就職をキッカケにわたしは大阪の難波のアパートへ引っ越し、母は父の暮らす実家の堺に戻りました。
大阪ミナミのど真ん中で暮らす
NGK(なんばグランド花月)の制作スタッフの面接時、劇場支配人に「昼も夜も無いような勤務形態になる」と言われ、それならば終電を気にせず働けるようにと劇場から徒歩圏内で住まいを探し、日本橋のマンションにしました。劇場からは徒歩7~8分ほど、南海なんば駅まで徒歩10分かからないくらいで、そこから実家まで電車で1本という、動きやすさの点で最高の条件のお家。劇場での激務をこなしながら、定期的に実家に行って母のサポートをするという、とんでもなくハードな日々を過ごしていました。
傷心を抱えて、神戸へ
吉本興業での仕事もハードでしたが、母の闘病生活サポートも過酷でした。様々な治療法、快癒の策を探し求め、試し続けた日々。少しずつ回復したり、劇的に善くなった時期もあったのですが、2014年の初夏、母はこの世を去ってしまいました。母の病気と向き合った約3年、自分の生き方、人にとって幸せな生き方について何度も何度も考えました。わたしに出来ることに限りがあったとは言え、母を救えなかったことがたまらなくショックで、一生癒えない傷を負ったようでした。母のような人を救いたいという思いから、病気のこと、心と体の繋がり、天職や運命、願いを叶える術と生き方について学ぶため、師事していた先生の拠点があった神戸に引っ越しました。母に寄り添っていた数年間は、自宅・病院・職場間の移動のみだったので、母を亡くしてからは糸が切れたように、全国各地、思いつくままに飛び回り、交通の利便性においても、神戸という拠点が適していました。
日本で一番好きな土地、高知
心理学、病理学、占星学などを学び、スクール在学中から鑑定書作成や個人セッションをするようになり、卒業時には講座を担当し、名古屋と神戸で講師デビュー。月の満ち欠けと体のリズムを基にしたライフデザインを提案していたので、より、月・体・自然・宇宙に意識を向けられる環境を求め、高知への移住を決めました。高知県はダンサー仲間の故郷で、初めて訪れた時に惚れこみ、年に何度も通っていたので、それならば住んだ方がいいのではと。心身共に疲れていたので高知の大自然に癒されたいという思いもありました。
高知に移住後は、月よみ師🄬としての仕事をしたり、アウトドアショップやカフェでアルバイトもしていました。神戸で暮らしていた時と同様、全国あちこちに出掛けていたのですが、その時、高知から県外へ出るのは中々に不便であることに気づき、旅に出たい自分の気質を思うと、拠点を置くのはここではないかもしれないと思うように。
高知は大好きだけれど、わたしはいろんな土地へ出掛ける暮らしがしたい。四国から出る際に何度も通過していた京都に引っ越すことを決めました。交通の利便性という点から、高知を去りましたが、今でも大好きな場所であることに変わりはなく、わたしの心の故郷です。
京都に移住後、心身の大浄化が起こる
京都は乗り換えの際に何度も訪れていたとはいえ、土地勘はゼロ。京都駅近くにある宿での仕事が決まっていたので、通勤に便利な場所を探し、京都駅の南側にある東寺から南へ下がったところにある上鳥羽エリアのアパートに決めました。その時から6年が経ち、今もそのお家に住んでいます。引っ越してすぐの2018年の春、わたしの心と体に大浄化イベントが起こり、生死を彷徨うことに。こんなにも頑張ってきたのに報われない、もう何をやってもうまくいかない、もうダメだ、と自分の人生まるごと投げ出そうとしていましたが、思いとどまり、ゆっくりと時間を掛けて自分の心と体を癒しました。人を救うことに一生懸命になり過ぎて、自分のことが見えておらず、盛大にすっ転んでしまい、もうどこにも向かえない、気力も体力も空っぽで、ただ生きるだけになっていた日々を、今のお家はやさしく包んで見守ってくれました。
だからこそ、愛着のある今の住まいなのですが、次の物語に進むためにも、そろそろ環境を変えるタイミングなのではと感じ、リサーチを開始。
京都に暮らしている間に、祖父母が亡くなり、昨年8月には父も亡くなり、自分は生きて何を遺したいのかと考えるようになりました。わたしには子どもはいませんが、友人の子どもたちが可愛くて大好きで、その子たちが生きやすい世界・未来であったらいいなぁと思います。そんな世界・未来を創るために自分は何が出来るかな?そんなことを考えながら、今を過ごしています。
「生きてることが楽しくなる世界を創りたい」
その願いを掲げて、目下、人生創造の企画会議中です☆(*^_^*)
環境や家が変われば人生がガラッと変わる、かと思いきや、否。暮らし方・生き方・持ち物がそのままで別の場所に移っても、あれ?何も変わっていないのでは?という体感に。
新しい場所で、本当に真新しい暮らしをするなら、自分の選択や行動も真新しくしないと、環境の変化を活かせない。
引っ越す度に考え、アップデートします。
−−−わたしはどんな暮らしがしたいのか、どんな風に何をして生きたいのか、わたしにとって譲れない大切なものは何なのか、わたしが幸せに生きるためには何が必要なのか···?
理想の暮らしを叶える家探し。2~3月、旅をして見つけてきます♪
予想外の出来事は、想像以上の未来へと運んでくれるから、直感と体感に敏感に、最大限自由にやわらかく、進んでいけたらいいなと思います。
読んで頂き有り難うございます😊 わたしが見たもの・感じたこと・考えたことについて、思いつくままに書いています。めっちゃWonderな地球暮らし、わたしもあなたもFantasista!ここにある言葉たちが、人生を楽しむヒントになれば嬉しいです☆