小説『ワンダリングノート・ファンタジー』(54)たどり着いて
Chapter54
「ここは、今のあなたに必要な場所⋯⋯」
依然としてレナに手を引かれながら、トムは書物の広がる空間で彼女の姿を改めて見つめた。古書が放つ、柔らかな輝きに照らされた彼女の装いは深い青黒の色調で、その中に織り込まれた金糸が動きに応じて繊細にきらめいている。ゆったりとしたフードから覗くブロンドの髪が、その謎めいた魅力を一層深め、古の伝説が語り継ぐ魔法使いや高位の守護者のような存在感があった。
「よくわからないけど、ここはとても重要な場所だってことだね?」
不思議な風が空間を揺らし、レナのフードがするりと頭から滑り落ちた。トムは、彼女の後ろ姿の変化に気づいた。背中まで届いた美しい長髪が、肩までの長さに短くなっていた。ロウソクの灯りの中では見落とされていた姿が、書庫特有の薄明かりの下で一層際立ち、レナの新たな雰囲気が浮き彫りにされた。
彼女の衣装と相まって、その容姿に心引かれたのも無理はないと感じたトムは、もはや幼馴染のそれではない別の感情が湧き上がっていた。
「レナ、僕はあの「絵本の世界」の──キリン公園のブランコで、何かに操られた後に⋯⋯いや、今話してもしょうがないか⋯⋯」
「⋯⋯ブランコ?」
空間を漂い歩くレナの足が急に止まり、トムは反射的に彼女にぶつかった。その勢いで後ろから抱きつく形になり、トムは驚いて声を上げた。
「うわっ! ご⋯⋯ごめん!」
「⋯⋯その時の映像、『ヴィジョン』が見える。そのまま離れずに、動かないで」
「えっ!? でも⋯⋯」
予想外のシチュエーションに、トムの心臓は破裂しそうになった。レナの背中の体温が伝わり、彼は自分の高鳴る鼓動が彼女にも聞こえてしまうのではないかと、その動揺を隠せずにいた。
「⋯⋯記憶、あなたの『古の記憶』が甦った瞬間の出来事が見える。あなたは自身の記憶を相手に争い、自身の能力に屈した」
──ああ、わかったよ。でも、少し静かにしててくれ──
トムはその時の「自分との会話」を思い出しながら、彼が体験したことをレナに説明した。
「そ、そうだ! 僕はその時点でそいつに何かをされて⋯⋯身体は動かなくなったけど、意識はあったんだ。逃げ出した君を追って、池の方へ歩いて行った。そこで君と一緒にいた小さな女の子に、僕は靴を脱がされて転んでしまった。それで⋯⋯」
突然、トムの前に古書が浮かび現れ、ページが自ら流れるようにめくれ始めた。その光景に目を奪われている間に、レナが静かに言葉を紡いだ。
「その幼子も私⋯⋯あなた自身が計画し、あの時あの場所で遭遇するように準備していたイベント。並行世界という概念だけに留まらない、あなたが懸命に創り上げ、身を結んだ瞬間がそれだった」
レナの言葉と、眼前に開かれた本のページから溢れ出す記憶が結ばれ、その想いはトムの涙となって頬を伝い落ちた。
「僕は⋯⋯君が溺れたあの池での出来事を回避するために、何度も何度も検証して、君の助かる現実を見つけたんだ! だけど肝心な⋯⋯あと一手に繋がるものが欠けていた。それでも僕は優先順位を守って、あの場に臨んだ。⋯⋯脅威の男「ダン」と立ち向かうために⋯⋯!」
後ろから抱えられていたレナはトムに向き直り、彼を見つめて言った。
「私は⋯⋯自分だけが助かる結果は望んでいなかった。私も⋯⋯あなたの助かる現実をずっと探し続けて、ようやく今⋯⋯ここに辿り着いた」
レナの手がそっと、涙に濡れたトムの顔に触れる。
「⋯⋯レナ? 君は僕の知ってる、レナかい?」
「世界は一つではない⋯⋯それでも今この瞬間を確かなものとして、残しておきたい⋯⋯から。⋯⋯ね?」
レナは可愛らしく微笑みながら、潤んだ瞳を閉じた。憔悴したトムの顔を両手でそっと包んで、二人の間にただひとつの確かな真実があるかのように、ゆっくりと唇を重ねた。