小説『ワンダリングノート・ファンタジー』(65)迷いを捨てて
Chapter65
レナの右手に天高く掲げられた金色に輝く斧は、ダンのいる方に向けられ彼の目を眩ませた。
「あなたが憎む因縁の相手『エマ・テナー』によって生み出されたこの私、『レナ・テノール』の手によって⋯⋯ダン、あなたの存在は絶たれるのよ」
レナの言葉に、ダンは悲しそうな顔を浮かべた。その表情は時折トムが見せるものと似ており、彼女は一瞬躊躇した。
今にして思えば、子供のトムと自分がこの「池で溺れた」という事象は単なる事故ではなく、このダンとの因縁の歴史を断ち切るための布石だったと彼女は悟った。それは計画された運命の一部であり、トムとレナの二人が再び力を取り戻すための試練でもあった。
『やはり、お前は所詮ヤツの生成物か⋯⋯わかっていた事だが、残念だ』
ダンがレナに対して襲い掛かろうと構えた瞬間、彼の足首をギュッと掴む大きな手があった。足元にはいつしか瘴気が立ち込め、その中から黒装束を纏った男の姿が怪しく浮かび上がった。
──レナ! そこの次元の狭間から「鏡の世界」へ先回りして、ダンの侵入を防いでくれ! ──
再び、トムの声がレナの耳に届いた。彼女は一瞬ためらったが、その言葉に託された緊急性を感じ取り、彼の優先順位を信じた。彼女はこれまでの経験から、素早い決断が運命を切り開く鍵であることを学んでいた。斧をしっかりと握りしめたまま、ダンによって引き裂かれた空間へとレナは果敢に飛び込んでいった。
『小僧っ!! 貴様はどこまでも俺の邪魔を──なっ⋯⋯何だと!?』
トムを模した男に掴まれたダンの足首は、見る見るうちに透き通るガラスへと変わり始めた。氷のように冷たいその変化の範囲は急速に広がり始め、自慢の脚力を奪われると焦ったダンは、すぐさまその手を払い除けた。
『何だこれはっ!! 得体の知れない、この能力は⋯⋯!?』
ダンは、ゆっくりと立ち上がる男の姿を確認した。黒いフードを被りそこから覗く顔は、それまで小僧と呼んでいたトムのものとはかけ離れていた。長い歴史を刻んだ深い皺で覆われ、時間の重みに耐えてきたような不気味さがそこにあった。
『シャドー⋯⋯か? あまりの成長ぶりに驚いたぞ⋯⋯もはや老齢ではないか。だが、これは何の真似だ?』
ダンは握られた足首をぶらぶらさせ、その様子を確かめた。彼の新調した黒いエナメル靴までもが透明に硬質化しており、その反射面が影の男の顔を照らし出した。
「ガラスの靴を履いた、王子様だぁ⋯⋯」
しわがれた声で嘲笑う老いたトムの言葉に、ダンは苦笑いを浮かべた。落ち着いた様子を見せてはいたが、その瞳の奥では冷たい怒りと警戒心が渦巻いていた。影のトムの予期せぬ力を身に受けて、彼のプライドは深く傷つけられた。
『生成失敗、か⋯⋯そのパワーで俺に楯突くとなると、確かに脅威的だ。だがな、シャドーよ⋯⋯お前は可哀想なヤツだ。エマによって無理やり引き離されたその身体と心は、むしろ同情せざるを得ない』
シャドーはダンの言葉に興味を示し、未だ見ぬ世界に触れる、子供のような好奇心に満ちた顔で彼を見つめた。
『そんなお前に、この俺が「再生成」という名の「躾」を施してやる⋯⋯純粋な影として、再びこの俺に仕えるための教育をな!!』
ダンは自身が引き裂いた空間に片腕を突っ込んだ。それは「鏡の世界」に到着したばかりのレナの目からも確認できた。彼女が脱け出して来た、大きくひび割れたエテルナル・ミラーの隙間から這い出たダンの腕が、何かを探るように激しく動いていた。
レナは隠れた位置から息を殺してその場面を見守った。その様子は、彼の強い執着と焦りを表しており、同時にこの空間から何らかの力を得ているようでもあった。
「ダンがこっちへ来てしまう前に、何とかしないと! あの大きな鏡のひび割れをどうにかして閉じる? それとも、あの腕をこの斧で⋯⋯」
レナは、この金色の斧が彼女の掌にしっかりと馴染み、勇気を与える一方で怖さも感じていた。以前ダンの顔面にこれを無我夢中で打ち込んだ時の、良心の呵責に苛まれた記憶を呼び覚ました。この斧には、持つ者の裏の感情を引き出し、殺意のようなものを抱かせる魔力が宿っていた。
「いいえ、迷ってなんかいられないわ!」
強い意志のもと、レナは再び斧を振りかぶり、鏡の側面にそろそろと回り込んだ。そこから伸びるダンの腕を真横から一刀両断しようとした、その時だった。
──鏡のパワーを得たぞっ!! 『パラレル・ミラー』!!──
ダンの唸り声は空間を揺るがし、突如生じた力の波がレナを圧倒した。平衡感覚が掴めず、バランスを失った彼女は目眩の渦に巻き込まれていく感覚を味わいながら、まるで重力が逆転したかのように、世界が上下に反転していく錯覚に陥った。