小説『ワンダリングノート・ファンタジー』(55)扉を開いて
Chapter55
時間がほんの一瞬、止まったような静けさの中で二人は照れくさそうに微笑み合った。トムは、本来の学生の純粋な感情と、長い記憶を旅した大人としての複雑な心情が混ざり合いながら、この時を忘れずに心に刻んだ。
「その⋯⋯僕の記憶はまだ、断片的なものかもしれないけど、やるべき事はわかっている。僕らは今、ようやく⋯⋯スタート地点に立ったんだ」
愛おしそうにトムを見つめるレナの視線は、ふと彼の背後に移り、そこに漂う何かを指差しながら優しく答えた。
「⋯⋯とても大切な物だから、あれはあなたに持っていて欲しい」
振り返ると、そこには赤い布のようなものがひらひらと漂っていた。それを見たトムは、大きな池の水面に浮かんでいた「ある物」の記憶として頭に引っかかり、無意識に彼女に尋ねた。
「レナ⋯⋯ひとつ聞きたいんだけど、僕らが遊んでいたあの池に⋯⋯落としちゃったモノって、何だったかな?」
「え? レナの、白いおにぎりのぬいぐるみだよ! それをトムが拾おうとしてくれたんだよね?」
突然、子供のような無邪気さで答えるレナに驚いたが、それもこの書庫による記憶の影響なのだろうと理解したトムは、さらに続けた。
「その落としちゃったモノって、レナの大好きな、赤いマントの方じゃなかった?」
「え? う〜ん⋯⋯そうだっけ? そうかもしれない!」
トムは自身の肉体に、無数の自分が共存するような感覚に包まれた。この空間の揺らぎによって思考が冴え渡り、あらゆる疑念が解決していくのを感じた。彼はふんわり漂い来る赤い布切れを手に取り、笑顔でレナに問いかけた。
「この書庫の空間は⋯⋯まだ確定していない世界を『選べる場所』だと思うんだ。違うかな? レナ」
「道はいくらでも開ける。あなたの望むままに⋯⋯これらの書物の中には、生まれたばかりの『空白のページ』が無限に存在する」
淡々とした口調に戻った「大人びたレナ」に、トムは希望を込めて応えた。
「そこに、僕らの楽しい思い出をいっぱい記すんだ。それ以外の感情の、入る余地がないくらいにね?」
「あなたの優先順位は正しかった。そして今、ここから⋯⋯『新しい世界への扉』を開く」
──瞬間、レナは不思議な光に包まれその手を伸ばし、空間に現れた荘厳な装飾を施した鏡に触れた。それは見上げるほどに広がりを見せ、鏡面の向こう側には古代の秘密や禁じられた知識がちらつくかのような、魔法的な輝きを放っていた。
「Mixx-404-xx⋯⋯了解⋯⋯『エテルナル・ミラー』との、リンクを開始する」
レナの言葉が鏡と共鳴すると、その表面は波打ち始め、トムはキーンとした強い耳鳴りを感じた。そのあと彼女の身体と鏡の間に、互いの意識を結ぶかのような光の筋がはっきりと現れた。
──頼れる守護者は、トム・ホーソーン⋯⋯あなただけとなりました──
鏡にはうっすらと人影が映り込み、レナの言葉に合わせて、そこから別の女性らしき声が重なるように聞こえた。この声は霊妙で、遠くから反射してくるような神秘的な響きを持っていた。