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小説『ワンダリングノート・ファンタジー』(53)波紋をくぐって

Chapter53


「この文字は何なんだろう? 絵本の世界に来たときに、何度か頭の中に浮かんだんだけど⋯⋯」

 英語のアルファベットにアレルギーの出るトムだったが、この文字列「NEDD I BROF」には何故か反応しなかった。それより、自分の名前までもが不気味に鏡に描かれている事の方が、彼にとっては気がかりだった。

「レナ、君はこの文字の意味がわかるのかい? 君のその姿といい⋯⋯何だかまた、悪い夢を見ているようだ。絵本の世界では、君にあの「イボイボサンダル」を履かせられたっけ。うん、今更何があったって僕は驚かないさ」

 トムはお馴染みの自己流対策「Myルール」に従って、冷静さを保とうとした。次から次へと襲い来る疑問の嵐に対抗するため、目の前の問題のみに集中する他はなく、レナの反応をじっと待ち続けた。
 彼女はまるで遠くの何かと交信しているかのように、口元にわずかな動きを見せた。目の前のトムとは別の場所に意識が飛んでいる様子を見ながら、彼は辛抱強く待った。しばらくして、レナの口から淡々と言葉が紡がれた。

「⋯⋯私は、鏡の世界の住人。最高司祭「エテルナル・ミラー」の守護者として存在している」

「え? エテ⋯⋯何だって? 『鏡の世界』って⋯⋯まあ、確かにこの部屋は鏡だらけだけど」

 困惑するトムの手を静かに取り、黒装束のレナは文字の描かれた鏡へ向かって聞き取れない不思議な言葉を呟き始めた。


──Mirr-12-ΔΣ-or──


 レナの放ったその芸術的な詠唱は優しい息吹となり、トムの心と身体の淀みを洗い流していった。その余韻に混じる懐かしい感覚に、彼は思わず涙がこぼれそうになった。

「君は本当に⋯⋯レナなのかい? まるで月の女神に魅せられたような気分だ。とても⋯⋯心地いいよ」

 あまりの幸福感に、旅する小説家は無意識に言葉を綴っていた。その感慨に浸っている間もなく、レナに急に手を引かれた彼はバランスを崩し、よろけてしまった。

「こっち⋯⋯奥に部屋がある」

「え? ちょっと待って! そこは鏡で──」

 トムの言葉の途中で、レナの指が不思議な光を放ちながら鏡の表面に触れると、彼女の身体の半分が鏡の中に溶け込むように消えていった。そして液体に浸るように、レナはその中へと完全に姿を消し、手に引かれたトムも「鏡の波紋」を一緒に潜っていった。

「いやこれは⋯⋯落ち着くのは無理だよな?」

 平静を装っていたトムは、驚きを隠せずに思わず声を上げそうになったが、レナは感情のない声で説明を続けた。

「ここは鏡の書庫。あらゆる記憶のデータベース⋯⋯古い歴史も探索できる」

「ちょっと待ってくれ! この部屋は⋯⋯床というか、地面が見当たらないぞ!!」

 トムの声が響くと、書庫内の空間に空気の波が広がった。無数の古書が水面に浮かぶように、空中に静かに漂っている。光と影の中、彼は自分の足元を見下ろし、本当に足を踏み出すべきか戸惑い震えた。

「⋯⋯心が本を選ぶ。思考や疑問に応じて、適切な書物が自らを示し、それがあなたの元へ現れる」

 レナの声が場に溶け込みながら、トムは彼女に続いて静かに浮遊する書物の間を漂い進んだ。二人の周りでは、波長の合った本が時折輝きを放っていた。

「全ての書物は⋯⋯空間を取り巻く『知識と記憶の鏡』から湧き出る。この書庫はただの場所ではなく、いわば『時間と記憶』が交錯するエリア⋯⋯今のあなたに、理解できる?」

「えと、つまり⋯⋯何だって?」

 目にする書物のページがめくれる度に、知識の閃きが光となって辺りを照らした。足場のない空間を水中のように漂い歩けているトムには、自分の身体をコントロールすることで精一杯だった。


Wait a minute! In this room... I can't see the floor, or rather, the ground!!


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