海中散歩
テレビでよく流れる絶景の映像で海を観るたびにいつも思う事を短い物語にしてみました。波音とか聴きながら読んでもらえばなと…
あの青へ帰りたい。
沈む沈んでゆく。遥かな深みへと引き摺りこまれるように。不思議と息苦しさはなく、意識ははっきりとしている。肌に伝わる冷たくもなく熱くもない人肌のような温もり。羊水の中で浮かんでいた時のような感覚。
頭上に広がるのは天色。太陽が差し込みゆらゆらと、風にそよぐカーテンのように光は遊んでいる。寂しくなるようなけれど晴れ晴れとした気持ちになる、友達と喧嘩して仲直りした日の帰り道で『また明日』をいう時。それに似ているんだ。
下に広がるのは青藍、その奥の深い闇へと続くグラデーション。飛行機に乗った時、上昇していくにつれて空色から青へと変化していった。上空30000mから見上げた空はこの色に似ていてその先にある宇宙の暗さを垣間見た。
大海原はプランクトンが成長できず濁りがなく遠くまで見通せると聞いた。食物連鎖の土台となる部分がいないから食べ物が乏しく見当たらない。青い砂漠だ。確かにそうだ、何もない。透き通っていて宙に浮いてるかのように錯覚してしまう。独りとはこういうことか。
太陽が沈む時にはどういう色になるのだろう。水中から見る色と陸上から見る色は異なるのか。頭上の色は橙から燃えるような赤へと変わり次第に紫へ、やがて鉄紺となり夜を連れてくる。下の青藍は少しずつ闇へと変わるのだろう。ただ1つ分かっているのは夜の海は全てが闇だということ。満月ならば多少明るいが新月ならば完全な漆黒だ。何も見えず何も感じない、より際立つ孤独感。
誰かが言っていたのを思い出す。砂時計のように薄れゆく意識の中。
『波が無ければ海に星空は映るのかな』
熾火が爆ぜて火の粉がふわっと飛ぶ。炎が揺れて踊る。その光に照らされた横顔はどこか遠くを見つめていた。満天の星空を見上げているはずなのにそれを見ていないような気がした。頑なに何かを拒んでいる気がした。
『きっとその時は地球が死ぬ日だよ』
そう返すとあの人はこちらに顔を向けると困ったように微笑んでいた。
生命は母なる海から生まれ、そして母なる海に還る。
全てを包み込むこの力に勝つ術はない。絶対的な力だ。誇示することもせずただそこに在る。自然とはこういうことか。
何かが肌を掠める。小さな泡だ、それは次から次へと湧いてくる。そっと手を伸ばすと弾けて消えた。
海流に乗ったのだろうか体は深海へと誘われる。するとその流れに負けない強い流れをほんの少し感じた。クジラが一頭、上がってくる。深海から来るとなればマッコウクジラだと思ったが違った。長いヒレが特徴的なザトウクジラだ。下顎にはフジツボがいくつも付いておりちょっとした岩場みたいだ。美しい流線形の体は勢いよく上へと泳いでいる。海流がなくともあまり速くは泳げないはずなのにそれは力強く泳いでいた。そのまま海から全身は消え去る。その先に太陽が見えた、眩しかった。
次の瞬間には豪快な振動を伴い海へと戻ってきた。ブリーチングをまさか海中から見ることになるなんて。ほんの一瞬だが確かに空を飛んでいた、何も無いからここも空と似たようなものなのに。ただただ羨ましいと思った。ありがとう、素晴らしい景色を見せてくれて。
いつのまにか寝ていたらしい深海へと着いてしまった、水圧の痛みさえ感じない。漆黒のはずなのにぼんやりと周りが見えた。ごつごつとした物が背中に当たっている。還ってきたんだ。ああそうか、死んだんだ。あなたも死んでしまったんだね。どれだけの時間が経ったかは分からない。けれどその姿になるまでは相当な時間が経過している。みんなは怖がるけれど私はあなたのその姿がとても美しいと感じるんだ。海中へと戻ってきたあの姿はしっかりと頭に焼きついている。そのままあなたは沈んだ、私と同じように。
ゆらゆら揺れる よせては返す
ねえ恋みたいでしょう?
心を奪った音を探しに さあ行こう
ずっとこうしたいと願っても 息が続かない
夢見るだけでもいいの ここは自由でしょう?
満ちては引いてゆく 漣は今でも心の中に
心を返してほしいの 早く速く
海底を歩くんだ 行ける所まで
疲れて寝てしまっても 美しい姿のままで
クジラの骨は語るんだ