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【屯田今昔】かつて、屯田に陸の孤島があった


屯田の中に陸の孤島があった

つい二十数年前まで、屯田の最南端の三角地帯が陸の孤島状態だったのはご存知だろうか。
具体的には屯田1条1丁目と屯田2条1丁目の南半分の箇所である。
なぜここが陸の孤島状態だったかというと、北西側は札沼線の線路、南側は防風林、東側は石狩街道の陸橋で覆われていたからである。そして、このエリアの出入口はたった1カ所しかなかったのである。

そこでここが陸の孤島状態から徐々に脱していく様子を時系列で追っていきたい。

ただ、自分が住んでいたわけではないので細かいところは間違っているかもしれないので、なにか勘違いがあればご指摘いただければ幸いである。

なお、これは以下の記事に書いたものを加筆修正したものである

札沼線(学園都市線)について

まずは札沼線について。今は学園都市線という愛称が付いているが正式名称は未だに札沼線である。

札沼線はもともとは札幌から石狩沼田までを結ぶ路線だったので札沼線である。ただし今は札幌から北海道医療大学までの路線となっていて、今や沼というのはなんのことだか分からない状態になっている。北海道医療大学も数年後には北広島に移転するので、この路線上に存在する大学はいずれ教育大だけになるだろう。昔は桑園に札幌予備学院もあったが、今はそれもないし、そもそも予備校である。そのうち、学園都市線という愛称も意味が分からないものになるだろう。ネーミングは将来のことを考えて付けるべきだとつくづく思う。その点、地下鉄南北線とか東西線はなかなか秀逸なネーミングである。

その札沼線は戦前、昭和10年(1925年)に石炭輸送の目的で開設された。設置にあたっては北側と南側の両側から別々に敷設し、札沼北線、札沼南線として別々に開設され、開通後に札沼線となった。当時は新琴似 - 篠路間だったが、屯田の最南端を僅かにかすめる札沼南線は昭和9年(1924年)に開通した。

今現在、札沼線に属する駅は、札幌 - 桑園 - 八軒 - 新川 - 新琴似 - 太平 - 百合が原 - 篠路 - 拓北 - あいの里教育大 - あいの里公園(以下略)だが、当時は桑園の次が新琴似、その次が篠路だった。

札沼線設立の経緯については新札幌市史に詳しい。

札沼線の敷設

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 石狩川の右岸を通じる鉄道敷設については、明治三十七年頃から起こっていたという。当初は新十津川村などに産出する石炭輸送のために、新十津川村から石狩町経由の鉄道敷設計画が起こった(北海道鉄道百年史 中)。四十五年石狩右岸関係八カ町村で「石狩川右岸鉄道速成同盟会」が組織され(同前、北タイ 大2・1・21では石狩川右岸鉄道敷設期成同盟会)、大正二年には鉄道敷設の請願・陳情を行った。この時の路線は沼田から石狩川の右岸を通り石狩町を経由して銭函へ通じるものであった(北タイ 大2・1・21、2・6、6・12)。
 七年になると鉄道速成期成同盟会の会長が岩村八作にかわり、札幌区との交渉の中で銭函への接続から札幌区に変更することになった。そして同会長と阿部札幌区長が鉄道管理局に赴いて陳情するなど(北タイ 大7・1・11)、新たな陳情活動が展開された(北タイ 大7・2・28)。十一月末には俵道庁長官へ陳情したが、この時の陳情の路線は、北竜村の留萌線沼田駅から新十津川・浦臼・月形・当別を経て、石狩川を渡り札幌村を抜けて札幌駅にいたる路線であった(北タイ 大7・12・5)。
 このような石狩川右岸鉄道の速成運動は、民営敷設に切り替えた時期もある(たとえば北タイ 大8・12・18、9・6・12、13)が、鉄道敷設法が改正され、予定路線網が明確になると、再び速成運動がさかんになった(北タイ 大10・6・2)。会長が代議士の東武にかわり、石狩川右岸鉄道期成同盟会の名称も札沼線速成同盟会に変更し、貴衆両院への請願・建議運動を展開することになった(北タイ 大10・10・25、11・7・4)。その活動の効あってか、十二月には十二年度予算への計上が閣議を通過し(北タイ 大11・12・22)、鉄道会議も通過して、十二年度以降の年度割りも決定した(北タイ 大11・12・27)。しかし関東大震災の影響や、十三年六月成立した加藤高明護憲三派内閣の緊縮財政政策により、着工は遅れた(北タイ 大13・9・28など)。そのため速成運動は継続して行われたが(たとえば北タイ 大14・1・26など)、十四年十二月第五一回帝国議会で事業費六五一万円、八カ年継続事業として決定され(北海道鉄道百年史 中)、十五年度からの着工がやっと決定したと報道された(北タイ 大14・12・26)。
 最終的にいつルートが決定したか不明であるが、函館線との分岐点を桑園と決定したのは昭和二年十二月である(北タイ 昭2・12・25)。測量は桑園口と沼田口から始められ、工事は昭和二年沼田口から着工され、浦臼までの区間は八年十一月竣工した。札幌側の桑園口からの着工は昭和四年七月で、浦臼までの区間は十年六月竣工した。札沼線は工事の進行により部分開業し、石狩沼田~浦臼間は札沼北線、桑園~石狩当別間は札沼南線と称し、十年十月の全線開通と同時に札沼線と改称した。
 その後太平洋戦争の状況の悪化により、鉄道資材不足からレールの軍事目的転用のため、十八年十月石狩月形~石狩追分間、十九年七月石狩当別~石狩月形間と石狩追分~石狩沼田間のレールを撤去した(北海道鉄道百年史 中)。

新札幌市史 第4巻 通史4

桑園駅などの設置

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 鉄道敷設法が施行されると、その後の運動は札沼線の分岐点や設置駅の位置などについての運動が展開されることになった。
 一つは分岐点となる位置について、鉄道会議通過直後の大正十二年一月九日、分岐点として桑園駅を新設する運動が始まった(北タイ 大12・1・10、2・4など)。札幌駅からの分岐を要望する運動もあったが(北タイ 大12・3・27、29)、最終的に苗穂駅と桑園駅で猛烈な競争が行われたという(北タイ 昭2・12・25)。
 その他の駅の設置については、篠路駅(北タイ 大12・1・19、2・4、3・17など)、新琴似駅(北タイ 昭4・3・27)、現在の札幌市域内では他に茨戸や烈々布など、また市域以外でもその設置場所について運動が展開された(北タイ 大12・3・9、19、5・15)。
桑園駅設置については、大正十二年九月になって「札幌琴似間に函館基点一七八哩六鎖に一駅設くべし」という通牒が、道庁を通して札幌市になされた(北タイ 大12・9・22)。そして十三年駅位置は、札幌競馬場で競馬開催されるときに臨時の乗降場が設置される場所に決定し(北タイ 大13・4・2)、六月一日開業した(北タイ 大13・6・1など)。
 現在の札幌市内には、新琴似駅篠路駅札沼南線開業の九年十一月二十日開業した(北海道鉄道百年史 中)。

新札幌市史 第4巻 通史4

それにしても、なぜ屯田の最南端を跨いでいるのだろうか?
札沼南線の計画が立った時に、駅が欲しいと手を挙げて行動したのが新琴似と篠路だった。もし篠路兵村(屯田)も手を上げていれば、江南神社周辺に駅を作っただろうと思う。ただ、新琴似-篠路兵村(屯田)-篠路と繋ぐ場合、水害の被害が大きい地域に線路を敷設する必要があるが、当時の技術で果たして可能だったのだろうか?
そもそも篠路兵村(屯田)自体、この頃は人口が少ないただの田園地帯なのでそういう声も上がらなかったのだろう。
経緯はよく分からないままだが、とにかく、新琴似から防風林を抜け屯田の南側を僅かに跨いで篠路方面を向かう線路が敷設されたのである。

屯田内から「陸の孤島」へ侵入できなかった

屯田内に敷設された線路には踏切がひとつも設置されなかった。この場所から一番近くの踏切は南側に設置された新琴似六番通りの踏切だった。北側は新琴似跨線橋とか石狩街道の陸橋とか、イマイチ呼び名が統一されていないが、踏切ではなく陸橋を超える必要がある。

ただ、そもそも屯田団地造成前の60年代前半まではこのあたりは田園地帯なので、さほど問題なかった、というと言い過ぎかもしれないが、そこまで気にすることでもなかったはずである。

地理院地図より(60年代初期だと思われる)
三角地帯には畑しかない

問題は屯田団地造成後で、この一帯にも宅地が出来始めた。このエリアに町内会が出来たのは昭和50年(1975年)のことである。そして、このエリアに侵入するには、踏切がない以上、新琴似側から入るしかなかったのである。

1979年頃まで

一応、一箇所の出入り口はあるので、陸の孤島というのは若干行き過ぎた表現かもしれない。ただ、自動車で唯一このエリアへの出入りが可能だったのは防風林の西側からだけ、琴似栄町通(茨戸街道)から屯田側の防風林横の道路のみである。このエリアに屯田から屯田へ行き来できなかった。まるでベルリンの壁である(ベルリンの壁の方が早く撤廃されたくらいだ)。これでは緊急車両の出入り等大変だろうと思う。仮にここが事故で通行止めになってしまえば、どうにもならない。単一障害点(SPOF)である。

自動車だけではない。徒歩でさえも線路の下を潜るトンネルを抜けないとこのエリアに入ることが出来なかった。そのトンネルでさえもここに宅地が出来た当初は存在しなかったことが、1985年刊行の「屯田中央五年のあゆみ 屯田中央中学校 開校五周年記念誌」に書いてある。

屯田初の中学校である屯田中央中学校が出来たのは1980年だが、それまでは屯田の中学生は新琴似北中または新琴似中へ通っていた。しかし、屯田中央中学校が出来たことにより、学区が変更となり、屯田に住んでいる中学生は全員屯田中央中学校に通うことになった。

そこで困るのがこのエリアに住んでいた中学生である。もともとこのエリアに住んでいた人は生活圏が屯田になく、むしろ新琴似が主の生活圏だった。そのため、屯田中心部に行く必要性がなかった。しかし学区が屯田中央中学校になったので屯田中心部まで出る必要が出てきた。

屯田中央中学校が出来る前は、このエリアから中学校へ行くために、いったん茨戸街道の出入口から新琴似六番通りまで出て、札沼線の踏切を超えてから再度屯田エリアに入る必要がある。つまり、ただでさえこのエリアから中学校はかなり遠いのに、さらに新琴似側まで出るという大回りを強いられてしまうのである。そこで、これをなんとかして欲しいと陳情して出来たのが札沼線を跨ぐ歩行者用トンネルだったようだ。

1980年頃

住宅地図によると「屯田地下歩道」という名前が付いていたようだ。

ゼンリン住宅地図 1986年版(住民名は伏せ字加工した)

自分は小学校の頃は屯田中心部に住んでいたので、新琴似北小の学区だったこの辺りに殆ど来たことがなかったが、中学校に入り行動範囲が広がった時に、ようやくこのエリアが少し妙で不思議な場所だと認知した覚えがある。トンネルでしか行けない謎の場所、秘境だと思っていた。またトンネルも見通しが悪く、通過するのも少し怖かったので殆ど通った記憶がない(あっても1,2回程度)。友人も線路の北側には結構いたが、このエリアには誰も住んでいなかった、というのもあり、殆どこのエリアに足を踏み入れたことがなかった。

なお、このトンネルは学園都市線高架化により今は廃止されてしまったが、以下の貴重な動画で見ることが出来る(エンジ色の入口)。
Youtubeもない時代に動画撮影していた投稿主の方は凄い。

1996年、屯田一条橋が開通

この状況に少しだけ風穴を開けたのが屯田一条橋の開通である。
屯田一条橋は石狩街道の陸橋の南側のふもとに出来た。これにより石狩街道側からこのエリアに侵入できるようになったのだ。車で入ることが出来る入口が二箇所になった。しかし、相変わらず袋小路であり、屯田中心部に行けるわけではない。
個人的には免許取り立ての頃にこの橋が出来たので、やっと開通したのか!と思って通ってみたら結局袋小路で家に帰るために同じ道を戻って帰る羽目になり、(今考えれば重要だということは分かるが)当時はどういう理由でこの橋を作ったんだ?と思ったものだった。

1996年頃

1999年、JR新琴似駅高架化

時代は20世紀の終わりになり、このエリアは脱・陸の孤島を達成する。
貢献したのはJR新琴似駅の高架化である。
これによりトンネルは廃止されたが、高架の下を通れるようになり通路が広がって見通しが良くなり、トンネルの中で誰かに襲われるかも?みたいな変な心配をする必要がなくなった。

なにより、防風林横の道路が開通したということが大きい。このエリアに入りやすくなったということもあるし、琴似栄町通からこの道路を通って屯田の西側まで行けることになったということが何よりも大きい。

個人的に、実は開通してから数年間、ここが通れるようになったことに気付いてなかった。それまでは昔の感覚でここを避けるようにして屯田側に入っていたのだ。

ある日、深夜残業で麻生からタクシーに乗ることがあり、運転手から「防風林側から入れば良いですか?」と聞かれ、そんな道あったっけ?と思いつつ「あ、はい」と答えたら、琴似栄町通から防風林北側の道を通り、ようやくこの通りが開通していたことに気付いたのである。

現在

こうしてかつて陸の孤島だったこの場所は今は昔の話になってしまった。まあ、若干今でも行きづらいエリアではあるけども。

ちなみにこの場所は高架の切り替え地点であり、ここから南側は、新琴似、新川、八軒、桑園、札幌に至るまで全て高架となる。平地から撮っても、陸橋から撮ってもなかなか絵になる良い撮影スポットだと思う。


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