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【追悼】工藤壮人〜FOREVER 9〜

 10月21日、サッカーJ3リーグのテゲバジャーロ宮崎に所属する工藤壮人選手が水頭症のため32歳で逝去されました。現役選手の訃報にただただショックで悲しいお知らせでした。工藤選手は日本代表でも出場・得点を記録したストライカーであり、何より柏レイソルでデビューした時から知っている選手なだけに、同じ学校の先輩みたいな感覚でただただ呆然とするしかなかった。 

工藤壮人がスター選手になるまで


 私が初めて工藤壮人というサッカー選手を知ったのは、2009年に柏レイソルのユースから昇格してプロになった年の選手名鑑だったと思う。当時はユース上がりの高卒新人で、選手名鑑での扱いも端に写真と経歴だけという小さな物だったと記憶している。壮人という名前を見て「これでまさとって読むんだな」と思ったのが恐らく彼に対する最古の記憶だったと思う。
 高卒ルーキーとして臨んだ1年目にいきなりJ2降格。リーグ戦3試合に出場しているが、いきなり苦い経験となった。翌2010年はレギュラーとなり、プロ2年目ながら10得点を記録。翌年の2011年には北嶋秀朗・田中順也らと強力なFW陣を結成。前人未到のJ1昇格即優勝の立役者の1人になった。翌年にはベテランとなった北嶋に代わりレギュラーとしてJ1でも2桁得点を記録。2013年には北嶋の移籍に伴い背番号9を継承。憧れだった先輩の背番号を継ぎ、名実共にレイソルのエースストライカーとして君臨することになった。
 この頃、私は福岡在住だったので鳥栖vs柏の試合で初めて彼をスタジアムで拝見した。2012年の試合では途中交代となったが、2013年の同カードでは76分にダメ押しとなる3点目のゴールを記録。彼らしい裏への抜け出しからのゴールだったと記憶している。
 この2013年は彼にとっても飛躍の年になり、リーグ戦で19得点を記録しACLでも6得点を記録。日本代表にも選出され、中国戦では初ゴールを記録した。
 これは余談だが、大分出身の私にとって大分トリニータが彼と対戦した記憶があまりない。それもそのはずで、柏や日本復帰後も彼の所属するクラブとカテゴリーのすれ違いもあり、記録を見返すと出場したのはこの2013年のみだが、その試合の記憶はほとんどない。ただ人間というのは都合の良い記憶の仕方をする生き物で、日立台でしっかり2点決められていた。どのクラブにもやはり脅威になったストライカーであった。
 その後、2015年にはユース時代の監督で恩師だった吉田達磨氏が監督に就任。自身は10得点と一定の結果は残したが、監督は1年で退任。時を同じくするように自身の夢であった海外挑戦を果たす為に慣れ親しんだ日立台を離れた。

念願だった海外挑戦とその苦労


 その年の年末、工藤が選んだ地はカナダ・バンクーバー。通常サッカー界で海外挑戦といえば本場の欧州だが、あえて北米というサッカー新興勢力の土地を選んだ。今思えば努力と探究心でプロを掴み、レイソルのエースや日本代表に上り詰めた経緯を考えれば、フロンティア精神に溢れていた彼らしい選択だったのかもしれない。
 バンクーバーでは加入当初に出番を得ていたが、顎骨骨折という重傷を負ってしまう。思いもよらぬアクシデントに見舞われ、シーズン中に復帰こそ出来たものの結果は17試合で2得点とFWとしては物足りない結果。結局このシーズンで退団となり、初の海外挑戦は怪我により悔いの残る結果で終わった。

ゴールを追い求めて新たな挑戦 


 帰国した工藤が次に選んだのは古巣の柏レイソルではなくサンフレッチェ広島だった。これには1サッカーファンとして大変驚いた記憶があり、当時このようなツイートをしている。

 上のツイートにもあるように、戻るなら古巣の柏か、恩師のネルシーニョが当時指揮していた神戸だと思っていた。ただ柏はディエゴ・オリヴェイラ、神戸はレアンドロとブラジル人の絶対的ストライカーが居て、タイミングの問題もあったと思われる。
 一方でこの年の広島は得点王を獲得したピーター・ウタカが退団となり、彼に代わる新エースの獲得が急務だった。そこで白羽の矢が立ったのが工藤だった。
 背番号も慣れ親しんだ9番ではなく50番を選択し、覚悟を決めての移籍加入となった。新エースとして開幕戦の新潟戦で1ゴールを決めたが、チームは開幕から低迷が続き工藤自身も不調に陥った。第6節のG大阪戦ではシーズン初勝利となる決勝ゴールを決めたが、結果的にはこれがこの年のハイライトになった。ミシャ→森保体制の広島の特殊なサッカーへの適応に苦しみ、結果的に5月の試合を最後にスタメン出場はなく、チームも残留争いを戦う上で途中加入のFWパトリックの個の力を活かす戦術に移行せざるを得ず、パスの受け手として活躍する彼の優先度は下がり、結果的に上記の2得点に終わってしまった。
 背水の陣で臨んだ2018年、U-17代表時代の代表監督だった城福浩氏が監督に就任。背番号も慣れ親しんだ9番に戻して心機一転の2年目を迎えた。
 しかし前年の残留に貢献したパトリックが絶対軸になっており、その相方をタイ代表のティーラシン・徳島でJ2日本人最多のゴールを記録した渡大生という新加入選手と競った。結果的にティーラシンがこの中では出場機会が多く、工藤は飛び飛びでたまにスタメン出場がある程度。結局出場試合数・出場時間数・ゴール数いずれも前年を下回り、広島での2年間は失意のまま終了した。

失意から立ち上がるために


 広島とはもう1年契約が残っていた工藤だが、2019年はレノファ山口にレンタル移籍することに。当時も再びこのようなツイートをしていた。

 この時の山口はJリーグ加入5年目でまだ若いチーム。そのチームにこれだけの実績を持つ選手が加入したのは大きいと感じていた。ツイートにもあるように前年大ブレイクしたオナイウ阿道の移籍に伴う新ストライカーとして工藤の加入が決まった。
 山口では背番号9はJ3時代からチームを牽引していた岸田和人が着けていたため、プロ初ゴールを決めた2010年から2012年まで着けていた19番となった。J2でのプレーもその2010年以来9年ぶりとなり、心機一転山口の地でシーズンが開幕した。
 その開幕戦は奇しくも前年にJ2降格となってしまった古巣の柏レイソル。開幕スタメンとはならず、この試合では終盤の数分間のみのプレーとなったが、春先にはスタメンの機会も増えた。ただその期間内10試合中9試合でスタメンながら2個ゴールと期待値に比べれは低調な出来になってしまい、その後はほとんどが途中出場となった。7/20のホーム新潟戦では大雨でぬかるむピッチの中で劇的同点ゴールとなるダイレクトボレーを決めるなど印象的な活躍もあったが、得点は4得点と3年連続で物足りない結果に終わった。
 また、8/10の柏戦ではスタメンとして出場。86分間慣れ親しんだ日立台のピッチでプレーしたが、これが結果的に日立台でプレーした最後の試合となった。

終わらない闇とオーストラリアでの挑戦


 広島・山口で共に結果を残すことは出来ずに広島との3年契約が終了。山口とのレンタル契約も満了になり、2020年は年を跨いでも所属チームが決まらないままだった。東欧の2部チームのトライアルなど海外にも門戸を開きながら所属先を探したが、なかなか決まらない日々が続き、Jリーグ開幕時点で未だ所属先なしの状態だった。
 その頃世界では新型コロナウイルスが大流行し、当然ながら入団テストはおろかサッカーどころではなく、生まれてまだ間もない娘さんもいる中で所属先のないまま不安な日々を過ごした。夏頃からは海外でトレーニングを積むことも出来ず、母校である日体大柏高校の施設を借りて自主練をしながらオファーを待った。
 年末の頃、やがて無所属になって1年が経過した頃にオーストラリアのブリスベンからオファーが届く。ブリスベンは2013年に前マリノス監督のポステコグルー(現・セルティック監督)の元で優勝したものの近年は低迷。名門復活の為にオーストラリアで次のキャリアをスタートさせた。
 しかし加入してから少しは出場機会を得る場面があったが、やはり1年のブランクによる試合勘の薄れは顕著であり、またオーストラリアは南半球のため季節が逆で、夏のシーズン途中加入ということもあり僅か1得点に終わった。新シーズンを迎える8月、双方合意の上で契約解除。オーストラリアでの挑戦は僅か半年に終わり、再び所属先を探すことになった。

若いチームのために


 再び無所属となった工藤だが、ブリスベンに留まりトレーニングを続けた。工藤の入団時に札幌からレンタルされていた檀崎竜孔とその通訳の方の力も借りながら、ひたすら吉報を待つ日々を送った。オーストラリアはロックダウン等のコロナ規制が日本より厳しい部分もあり、まだ小さい娘さんを連れての生活でより心身共に苦労が絶えなかったことは想像に難しくない。
 3〜4ヶ月程無所属のままトレーニングの日々だった工藤。そこに驚きのオファーが届いた。J3のテゲバジャーロ宮崎からのオファーである。宮崎は2021年にJリーグ入りしたばかりの新米クラブながら、この年は3位と大躍進。ただその大躍進に貢献したFW梅田・藤岡の2名が移籍。そこでオーストラリアの工藤に新エースとしてオファーをかけた。
 当然ながらJ3に加入したばかりのクラブにとっては、J1でプレーした経験すらない選手しか居ない中、J1で192試合60ゴールを記録し、日本代表出場経験もある選手の加入は文句なしにクラブ史上最大の大物だった。私自身も当時大変ビックリした記憶は鮮明に残っている。

 私個人としても九州を、宮崎を盛り上げる存在として工藤の宮崎加入は素直に嬉しかった。実力はもちろん元日本代表という肩書きはクラブの顔として、テゲバジャーロ宮崎の知名度向上として、若い選手に対するプロ意識の見本として大きなレガシーを期待しての獲得だったと思う。
 宮崎では柏・バンクーバー・広島・ブリスベンと背負った馴染みある背番号9で新シーズンを迎えた。新エースとして開幕スタメンを掴み取り、一時期離脱していた期間があったが、前半戦は多くの試合でスタメン出場し柏時代以来のレギュラー格で出場機会を得た。私自身は5/5のアウェイYS横浜戦を三ツ沢で現地観戦。残念ながら前述の離脱期間でメンバー外だったが、宮崎側のスタンドには柏の背番号9のユニフォームで観戦する方も居て、その愛され具合を認識した。
 ただコンスタントに出場機会は得たものの、チームは多くの主力を引き抜かれた影響もあり7連敗を喫する期間があるなど苦戦。工藤本人もその他様々な部分での貢献もあったが、3ゴールは本人にとっても不本意ではあった。
 後半戦は慣れない右サイドハーフでプレーする時間もあったが、9/10の富山戦まで殆どをスタメンで出場した。9/25のホームで行われた今治戦は途中出場で終盤に出場。結果的にこれが公式戦最後の出場になった。
   続く10/2のアウェイ北九州での九州ダービーは私も現地観戦したが、この日と翌週の福島戦はメンバー外となった。今季2試合宮崎の試合を現地観戦して2試合共に彼がメンバー外なのは個人的にも残念に思っていた。

別れは突然に


 その翌週に行われた鹿児島との南九州ダービーもメンバー外となり、いきなり何試合もメンバー外になる程までコンディション不良もないだろうし、リリース出さない程度の軽度の怪我か或いはコロナ対応だろうと思っていた。
 しかし10月18日にテゲバジャーロ宮崎から衝撃の一報がリリースされた。”工藤壮人選手の体調について”とリリースされたその内容は”水頭症と診断されICUで治療中”というショックな物だった。まず水頭症という症状についてを知らなかったので検索をした。サッカーを続けるのは厳しいかもしれない…というのを感じたと共に、お子さんもまだ小さいので、まずは一命を取り留めて欲しいという思いを持った。でも持ち味のハードワークと不屈の闘志で必ずピッチに帰ってくる、その時は宮崎のユニスタまで行って拍手を届けようと思っていた。
 しかし現実は、神様はあまりにも残酷だった。10月21日の夜遅く、テゲバジャーロ宮崎から”【訃報】工藤壮人選手 逝去のお知らせ”というリリースがあった。1番見たくなかった字列が来てしまった。正直に言えば全く覚悟していなかった訳ではなかったが、それよりもずっと、病に競り勝って復帰のゴールを決めてくれると信じていた。
 本当なのか、誤報ではないのか…。でもクラブがこのような重要な事象で誤報でリリースするはずがないと、現実を受け入れられない自分、現実を受け入れる覚悟な自分が居てただただ感情がグチャグチャになった。

現実を受け入れる勇気


 気持ちの整理がつかないまま翌22日、国立競技場で行われるJリーグYBCルヴァンカップの決勝戦の観戦に向かった。対戦カードはセレッソ大阪vsサンフレッチェ広島で、先述の通り広島は工藤の古巣であった。当然ながら観戦の予定を入れた時にこのようなことになっているとは想像していなかった。
 アップ時には広島サポから工藤コール、そして試合前には場内アナウンスと共に黙祷が捧げられた。ここで初めて彼が居なくなったんだ…という実感が湧いてしまい、黙祷中に涙を堪え切れなくなってしまった。その後に広島サポだけでなくセレッソサポからも巻き起こった”工藤コール”にも涙が止まらず、試合開始5分ぐらいは涙で視界が曇っていた。
 試合はセレッソが先制するも広島がアディショナルタイムでの同点・逆転ゴールで広島が劇的逆転勝利。優勝セレモニーの中、工藤の広島時代のユニフォームをずっと掲げている選手が居た。第2GKとしてベンチ入りしていた川浪吾郎だ。川浪は工藤と同じ柏ユースの出身で、工藤の1年後輩の選手。GKとFWというポジション柄、工藤のシュート練習に川浪が付き合うことも多かった。ずっと親交がある先輩への想いにグッと来た。また工藤コールのみならず、在籍経験がないにもかかわらず弾幕まで提出していたセレッソサポの姿も涙を誘った。その他多くの人々が彼を偲ぶコメントを寄せていたのも見て、改めて彼の人柄や影響の大きさを実感した。

愛したピッチ、愛したファミリーと共に

工藤が愛した日立台のピッチ、そしてスタンドには9番の姿が多かった


 11月5日、三協フロンテア柏スタジアムで行われた柏レイソルと湘南ベルマーレの試合を観戦しに行った。工藤が小学生の時から16年所属していた、いわば育ての親となるクラブである柏レイソル。彼の訃報後初めてのホームゲームとなったこの日は献花台が設けられ、長蛇の列と共に非常に多くの花束が彼に向けて送られていた。また試合前には黙祷と共に、彼の活躍を振り返る追悼映像がビジョンに映し出されていた。

 小学生時代から在籍していたレイソルだからこそ作れる映像で、改めて彼の功績の凄さを知ると共に、あの屈託のない笑顔がもう見られないことに寂しさを感じ、また涙が溢れた。
 またセレッソに続き対戦相手の湘南のサポーターからも弾幕が送られた。昨年オリベイラさんで同じ思いを味わった湘南だからこそ分かる気持ちと思いやりだったのではと思う。また柏ユースで前述の川浪と共に1年後輩の茨田陽生は黙祷の際に涙を浮かばせるなど、その慕われっぷりを改めて実感した。

湘南サポーターからも温かいメッセージが寄せられた


 この試合では工藤が入団時から共に戦い、レイソルユースの大先輩である大谷秀和の引退セレモニーが行われた。セレモニーでの挨拶の結びに彼への想いを語る大谷。自分のことに関してはスラスラと喋っていた彼だったが、工藤の話になると目が潤む場面も見られた。柏市長の太田氏・瀧川社長も彼への弔いの意を述べると共に、大谷と共に引退する染谷悠太からも工藤に関するコメントが送られた。染谷は在籍経験の被りはなく、対戦経験も殆どないのだが、それでもこのようなコメントが送られるのに彼の人望の深さが窺えた。
 瀧川社長の挨拶の中でも述べられた通り、柏レイソル在籍時に記録したJ1通算57得点はクラブ記録の数字。文字通り日立台のピッチに彼が残した物は大きくそびえ立っている。偶然では決してないだろう、この日の日立台には昔のフォントが使用された背番号9のユニフォームの姿が多く見られた。慣れ親しんだ日立台のピッチ、そこにはいつまでも背番号9の姿が永遠に残り続けるだろう。

工藤壮人が遺した物

 それはまさに青天の霹靂だった。訃報から2週間経った今でも、宮崎の試合を見れば背番号9がボール追っかけてシュート決めているんじゃないか?と思ってしまう。そして彼らしい笑顔を振り撒いているんじゃないかと。
 現役選手の急逝は海外サッカーを含めると何例か見てきていて、国内だとマリノス・松本山雅でプレーした松田直樹さんや、昨年2021年に急逝された湘南のオリベイラさんが思い起こさせる。とはいえ工藤壮人は前述のように柏レイソルでプロキャリアをスタートさせた時から、サッカーファンとしてプロキャリアの全てを見てきた選手であった。レイソルで背番号9を背負いエースに成長し、日本代表の門戸を叩くまでになった姿、柏を飛び出してからの苦悩のキャリアや、日本に戻ってテゲバジャーロ宮崎という若いクラブを選んでくれたこと。
 プロサッカー選手・工藤壮人という人物ドラマの全てをリアルタイムで見ていたこと、私とほぼ同世代であったことも相まって、レイソルファンではない私としても衝撃はあまりにも大きかった。
 思い返すと、オフザピッチでの彼は一瞬の隙も逃さないギラギラした目をしたストライカーとは程遠い、優しい笑顔と実直な姿勢で物腰の低い好青年だった。柏レイソルはもちろん、サンフレッチェ広島・レノファ山口・テゲバジャーロ宮崎のサポーターのみに限らず、バンクーバーやブリスベンからも彼を惜しむ声が止まることはなかった。思えば結果が出ずにプレー面で批判されたことはあったが、人間性を悪く言う人は今の今まで1度も見たことがない。それどころか、どのクラブでも口々に丁寧なファンサービスや真摯な姿勢しかエピソードが出てこない。彼がそれだけ愛された要因の1つでもあった。
 また広島移籍以降はオフの日やトレーニング後の午後を使って、県内各地の名所を訪れた姿をSNSにアップしてホームタウンの魅力も発信するなど、持ち味の献身性はオフザピッチでも存分に発揮されていた。
 余談だかオフザピッチの話をもう1つ。工藤は東京都出身ながらプロ野球・阪神タイガースの大ファンだったのは有名な話である。日本テレビのスポーツ番組『Going』で阪神のレジェンドOBである赤星憲広氏が日立台に取材に訪れた際の、少年のような目の輝きは今でも目に焼き付いている。また広島在籍時にはマツダスタジアムで広島カープと阪神タイガースの試合を観戦したりと、こういう親近感を感じさせる人間性もまた彼の魅力だった。
 小学生の頃に入団した柏レイソルジュニアから内部昇格で掴み取ったプロキャリア。これだけ見ると附属校からのエスカレーター進学のようで苦労なんかないと思ってしまうが、酒井宏樹ら柏ユース黄金世代と言われた90年組は、後に6名がユースから直接昇格したが、彼はかなりギリギリになって昇格が決まった。その後柏では黄金時代を築く活躍を見せたのは周知ではあるが、柏退団後に無所属を経験する程の苦労を要したのも周知である。見える苦労、見えない挫折が彼の経験の糧になった。
 また工藤壮人というFWは爆発的なスピードがあるわけでもない、177cmと特別に体格が優れているわけでもない。献身性とシュート技術、いち早くボールに飛び込む嗅覚でゴールを量産してきたFWだった。既に宮崎では若手に伝授していたと思うが、挫折・苦労の経験やフィジカル能力に依存しないゴール量産の術をサッカー界に還元し、ゆくゆくは大谷監督・工藤コーチの柏レイソルが見られると思っていた。それだけに32歳という若さでこの人材を失ったのは日本サッカー界にとっても何より大きな損失であると思う。そして何より彼のご両親やご兄弟の皆様、奥様やまだ幼い娘さんのことを思うと言葉に表せない程に胸が苦しくなる。
 とはいえ工藤壮人がサッカー界に遺した功績は燦然と輝き続けるだろう。日立台の太陽、絶対に折れない紫の情熱という矢、常に革新性や闘争心を忘れないオレンジの心、そして南国を見守る優しい笑顔と真摯な姿勢としていつまでも輝き続けるだろう。
 最後に、我々サッカーファンが出来る最大のことは、工藤壮人という偉大なサッカー選手が居たことを後世まで永遠に語り継ぐことだろう。そしてサッカーファンとして工藤壮人に特大のありがとうと花束を送りたいと思う。
 工藤壮人さん今までありがとう、そしてお疲れ様でした。さようなら。





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