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【サッカー】大分トリニータ歴代ベスト11

 今回は特別企画。1993年5月15日にJリーグが開幕して今年で30周年。そこで私の地元である大分トリニータの、個人的に選ぶ歴代ベストイレブンを考えてみようかと思います。注意点としては私が小さい頃にトリニータがJリーグに参入しましたが、2004年ぐらいまではあまり記憶が定かではないので、それ以降の選手が中心になると思います。また実際の公式戦ベンチ入り人数と同じ18名+監督で選出しようかと思います。それでは行ってみましよう。

◆GK

西川周作

在籍年:2005〜2009/現所属:浦和レッズ
トリニータ通算(リーグ戦):118試合0得点

 GKは満場一致で西川周作だろう。宇佐市出身でユースからトリニータに所属した下部組織出身GKの最高傑作。ユース時代はFKも蹴るGKとして注目され、デビュー戦では実際にFKを蹴った。
 トップ昇格1年目の途中に当時の正GKだった岡中勇人からポジションを奪ったが、トリニータ在籍時には怪我に悩まされる機会も多く、2008年のナビスコ決勝もピッチには立てなかった。そんな西川は翌年初めて全試合出場。その年のJ2降格と財政難により大分から移籍した。
 彼が本領を発揮したのはその後である。在籍時には怪我がちだった彼も2009年から14年連続で30試合以上に出場。J1リーグ2度、天皇杯2度、ルヴァン1度、ACL2度の優勝に5回のベストイレブン受賞と輝かしい経歴も手にした。何度か彼と対戦する機会もあったが、対戦する度に脅威として立ちはだかっている。
 記憶に新しい先日の浦和レッズでのACL制覇にも大きく貢献し、まもなく37歳になるが未だ全盛期と言える活躍を見せている。最後に彼が帰って来れる舞台を作るためにもJ1に戻るしかない。

◆DF

深谷友基

在籍年:2005〜2009,2013/現所属:引退
トリニータ通算(リーグ戦):144試合7得点

 DFの1人目は深谷友基。阪南大学からの加入1年目からレギュラーの一角として活躍し、2008年のナビスコカップ制覇にも大きく貢献したCB。ファルコンの愛称でも知られ、後輩選手にもイジられるムードメーカー的な選手でもあった。
 最大の武器は身体能力を活かした対人の強さと空中戦の強さ。今なお破られていない、2008年の24失点というJ1最少失点記録の樹立にも右CBとして大きく貢献。また守備はもちろん高さを活かした意外な得点力も大きな印象。2007年ホーム浦和戦の敗北寸前だったチームを救う同点ゴール、2008年のホーム横浜Fマリノス戦で長い距離を自ら持ち込んで決めた驚きのミドルもあったが、やはり2009年のホーム浦和戦の、14連敗を止めるゴールが語り草だろう。4ヶ月半も勝利から見放され遂に監督のシャムスカ解任という苦渋の決断で迎えた試合、魂の籠ったヘッドで勝利の喜びを届けてくれた。
 その後チームの降格に伴い大宮へ移籍したが、2013年のJ1昇格時に再び戻ってきてくれた。結局僅か4試合の出場に留まり1年で満了と戦力にはなれなかったが、あのファルコンが戻ってきてくれるのが嬉しかった。

鈴木義宜

在籍年:2015〜2020/現所属:清水エスパルス
トリニータ通算(リーグ戦):221試合6得点

 DFの2人目は鈴木義宜。2015年に宮崎産業経営大学から新卒としてトリニータに加入し、6年間プレーしたCB。加入1年目からレギュラー出場するも、この年にJ3降格を経験。鈴木本人も町田との入れ替え戦の第1戦で退場となり、第2戦には出られないまま降格するチームを眺めるだけだった。
 J3に降格した2016年に故・ダニエル氏の陶酔を受けてDFとして大きくパワーアップ。J2復帰を勝ち取り迎えた2017年は3バックの右CB、2018年以降はリベロとして多くの試合に出場。とりわけ頑丈さは目を見張る物があり、トリニータでのリーグ戦で欠場したのは3試合のみで、プロ2年目からの5年間で欠場したのは脳震盪での1試合のみ。鉄人あるいはある時からは皇帝とも呼ばれていた。
 プレー面でも2019年はシュートブロック数リーグトップに輝くなど最後の砦として機能するのみならず、最後尾から丁寧に繋ぐ片野坂サッカーにおいても重要なピースになっていた。それだけに清水に移籍した時には動揺も感じたし、怒りのような物も正直あった。それでもタフさと堅実さを兼ね備えた彼はトリニータでも屈指の守備者だったと思う。今年は再び敵として立ちはだかるが、彼を超えなければ昇格はない。

岩田智輝

在籍年:2016〜2020/現所属:セルティックFC(SCO)
トリニータ通算(リーグ戦):112試合7得点

 DF最後の3人目は岩田智輝。トリニータユース出身で2015年に2種登録でトップチームに帯同するもJ3降格を経験。高卒ルーキーとしての2016年の舞台はJ3となったが、ここで片野坂監督により右SBにコンバートされたことが彼のキャリアの転機となる。正直相当拙い部分も多々あったが、ユース時代の主戦場はボランチだったことを覗かせるインテリ性を感じるプレーも見せた。
 ただ2017年はJ2の壁や選手層が厚くなったのもありプロの壁にぶつかった1年だった。それでも2018年の中盤戦以降は松本怜との好連携で右サイドを制圧する攻撃的な右CBとしてレギュラーを掴み、J1昇格に大きく貢献。
 舞台が変わった2019年は自身初のJ1でのプレーとなったが、ここでも松本との好連携の右サイドは攻撃のストロングポイントのみならず、相手キーマンとの1vs1で守備の強さも見せ、4得点と得点力も向上した。
 2021年からは横浜F・マリノスに移籍し、2022年にはJ1優勝とリーグMVPを受賞。トリニータ育ちの選手がMVPを受賞するのはもちろん初で、これを置き土産に現在はセルティックに移籍し、念願だった海外移籍を実現。
 経営危機に陥った2010年代以降のユース出身選手としてはもちろん最高傑作であり、現所属の弓場らユース卒の後輩選手にも大きな刺激を与えてくれている。

◆MF

エジミウソン

在籍年:2003,2005〜2006,2007〜2009/現所属:引退
トリニータ通算(リーグ戦):127試合11得点

 MFの1人目は何度でも大分に舞い戻り、クラブの黄金期に君臨した陽気なブラジル人ボランチのエジミウソン。
 ファンからもエジの愛称で親しまれたブラジリアンの最大の特徴は豊富な運動量とボール奪取能力。ピッチの何処にでも顔を出し危機を察知してボールを刈り取るのはもちろん、2008年に鹿児島で行われた札幌戦での劇的なゴールのような、時にはゴール前まで走り込み叩き込むこともあった。常にトリニータのために戦ったその背中が頼もしかった選手。
 そんなエジが初めて大分に降り立ったのは2003年の秋。J1初挑戦のチームは残留争いに苦しんでいた中での緊急補強だった。合流したラスト5試合で残留に貢献して颯爽と去って行った。それから1年半後、2度目の加入も2005年の残留争いに巻き込まれていた最中だった。同時期に監督のシャムスカ、ボランチでコンビを組むトゥーリオの加入もあり大活躍。いわゆるシャムスカ・マジックのV字回復の立役者となり、翌2006年は当時のクラブ史上最高順位にも貢献。再び輝かしい活躍を見せてブラジルへと帰って行った。
 そんなエジの元に三度のオファーが届く。2007年もやっぱり残留争い真っ只中だった。今回も同じブラジル人ボランチのホベルトとコンビを組み、苦しかったチームを何とか建て直し残留を掴んだ。翌2008年は周知の通り、クラブ史上初のタイトル獲得にも大きく貢献。
 2009年は遂に降格となってしまったが、残留争いの度に颯爽と現れて窮地を救い頂点にも導いてくれた、クラブ史を語る上で絶対に外せない選手。

宮沢正史



在籍年:2007,2009〜2013/現所属:引退
トリニータ通算(リーグ戦):145試合0得点

 ボランチの2人目は宮沢正史。2007年にFC東京から加入したボランチの選手だったが、当時は前年のブラジル人ボランチコンビから2枚とも変更になったことや、コンビを組むジュニオール・マラニョンの適応不足等もあり、前述のエジミウソン・ホベルトに取って代わられた。翌2008年には仙台にレンタルとなり、2009年も怪我人多発で出場した試合もあったがインパクトは残せなかった。
 そんな彼がトリニータで重要な選手へと変貌したのは2010年。降格と経営難で多くの主力が移籍した中で大分に残り、ボランチのレギュラーとして活躍。翌2011年に田坂和昭監督が就任すると主将に就任。この年から2013年に退団するまでの3年間に渡り主将の責務を務め上げ、ボランチのレギュラーとして中盤に君臨し、2012年にはJ1昇格プレーオフを勝ち抜いて、経営難のチームをJ1に引き上げる活躍を見せた。2013年はJ1の壁やチームとしての戦力差、夏にロドリゴ・マンシャや梶山陽平ら実力者を補強したのもあり出番はやや減ったが、主将が契約満了になったのは驚きだった。
 加入当初は戦力になれなかったが、そこから必要不可欠な選手へと変貌した不屈の闘志、左足の卓越したキック、管制塔としてのサッカーIQの高さで中盤の王様として活躍した。個人的には田坂体制といえば攻撃では森島康仁、守備では宮沢正史というイメージが強く、3年間主将を務めたキャプテンシーは苦しいチーム事情の中でも泥臭くも光っていた。まさにいぶし銀だが歴史に名を刻んだ選手だった。

高橋大輔


在籍年:2006〜2009/現所属:引退
トリニータ通算(リーグ戦):105試合21得点

 サイドプレイヤーの1人目は高橋大輔。福岡大学から加入した当初はFWだったが、シャムスカからクロスの巧さを買われて右サイドにコンバートされてプロキャリアがスタートした。
 ルーキーイヤーの2006年は中盤戦より長らく右サイドに君臨していた梅田高志
からポジションを奪う活躍を見せる活躍で、元来のFWらしく得点力も発揮し、特に8月に行われたホーム浦和戦での、この年に優勝した浦和に土を着ける見事なゴールは今でも覚えているシーン。翌2007年はチームが残留争いに巻き込まれるシーズンになったが、中断明け初戦のアウェイFC東京戦で上本大海のロングパスに抜け出して見事なシュートを決めて勝利に貢献。後半戦の反転攻勢はこのゴールがあったからこそではないかと思っている。この年はキャリアハイとなる10得点を記録。高橋の活躍がチームの残留にも繋がった。
 2008年は夏頃まで前年の怪我の影響が残ったが、代役選手の活躍が良い刺激になったのか、復帰後は右サイドを制圧する活躍。ナビスコカップ決勝の国立のピッチにも立ちタイトル獲得に貢献。翌2009年の降格時に多くの選手と共に移籍となったが、黄金期を支えたサイドプレイヤーだった。FW出身ということもあり得点力が魅力的な選手という印象。
 トリニータ退団後はセレッソ大阪に移籍。清武・上本らかつてのチームメイトと共にプレーしたが、怪我の影響もあり28歳で現役を引退。実働僅か7年のキャリアながら大きなインパクトを残した。引退後は母校の福岡大学でコーチを務めた後、現在はセレッソ大阪でコーチを務め、清武や為田といったトリニータゆかりの選手達にも指導を行っている。

松本怜


在籍年:2013〜2022/現所属:大分トリニータC.R.O./ジェイリースFC
トリニータ通算(リーグ戦):240試合12得点

 サイドプレイヤーの2人目は昨年まで選手としてプレーし、2023年からはC.R.O.としてチームをオフザピッチから支える傍ら、ジェイリースFCで現役を続けている松本怜。
 レンタルで加入した2013年は開幕スタメンを掴みJ1初ゴールも決めたが、怪我に苦しみ本領発揮には遠く、翌2014年はレンタル延長して臨みJ1復帰に向けて奔走し多くの試合に出場したが目標達成ならず。続く2015年は覚悟の完全移籍加入となったが、右サイドから奮闘するもJ3降格の屈辱。生え抜きでもない彼は移籍することになるだろうと思っていた。
 しかし2016年もトリニータと共に戦い、前半戦は左MFとして、後半戦は右MFとしてタフなシーズンを1年間レギュラーで戦い抜きノルマを達成。J2復帰した2017年は岸田翔平や黒木恭平といったライバルが多く加入するも、開幕戦の福岡戦で先制ゴールを奪いチーム躍進のきっかけを掴むなど主力として活躍した。
 2018年には全試合出場に4ゴール10アシストとキャリアハイを記録するなど、まさに八面六臂の活躍を見せ、チームのJ1昇格に大きく貢献した。またこの年の中盤戦以降は翌年のJ1での躍進も支えた、岩田智輝との黄金の右サイドコンビを結成。2018年のJ2最多得点記録を支えるなど”大分の右サイド”は大きなストロングポイントになっていた。
 J1でのプレーとなった2019年も全試合出場と片野坂スタイルに欠かせない選手となり、2020年の東京戦では鮮やかなコントロールショットを見せるなど輝きを見せた。2021年はチームの低迷や新戦力の加入などで出場機会が減りJ2降格となったが、天皇杯では主に途中出場で落ち着いたプレーを見せ準優勝に導いた。
 昨年の契約満了を以て選手としてはトリニータを離れることになったが、C.R.O.として今もトリニータの為に走り続けている。北海道出身で大分とは縁もなく、イケメンでシュッとした都会っ子のイメージだっただけに、正直10年以上も大分に骨を埋めるとは思っていなかったし、来た時はスピード一辺倒だったのがインテリジェンスを習得するなど在籍期間中にも成長を見せた。特に片野坂体制の歴史は松本怜の歴史でもあると思っている。選手として口にしていた”大分にACLを”の目標、それは後輩達がきっと成し遂げてくれるのではないかと信じている。

◆FW

吉田孝行


在籍年:2000〜2005/現所属:引退
トリニータ通算(リーグ戦):189試合44得点

 続いてはFWの3人、まずはトリニータ初のJ1昇格に大きく貢献した吉田孝行。元々は横浜フリューゲルスで活躍していた選手で、最後の試合となった天皇杯決勝でもゴールを決めた選手だった。
 トリニータにはマリノス移籍後の2000年途中に出場機会を求めての移籍だった。加入直後から主力として活躍したが昇格は叶わず、翌2001年も個人としては15得点を記録するも昇格とはならなかった。正直この時点でJ1チームに移籍してもおかしくなかったが大分に残留。そして翌2002年は主にアンドラジーニャと2トップを形成。相方を活かす頭の良さの他に自らも9得点を記録してJ1昇格に大きく貢献。チームの中心選手としても足場を固めて行った。
 J1での初挑戦となった2003年は高松大樹の台頭もあり、ポシションを少し下げたトップ下での出場も多くなりながら、チーム最多の7得点を記録して残留に貢献。翌2004年からはマグノ・アウベスの加入もありチャンスメーカー的なトップ下での出場が主となり、2005年には主将となり名実共にチームの顔になる。残量争いに巻き込まれながらも責務を果たし、オファーのあった古巣マリノスに移籍。
 マリノス移籍後は岡田武史監督に見出され出場機会を得た後、地元のヴィッセル神戸へ移籍。2010年はトリニータ時代の残留争いの経験を活かして大逆転残留の輪の中心となり2013年に現役引退。その後は指導者となり、現在は神戸の監督として2023年前半戦は首位に付けるなど絶好調なチームを作っている。在籍時のインテリジェンス性を見ると、レゾナックドームで指揮を執るのも見てみたい人ではある。

三平和司


在籍年:2011〜2012,2015〜2020/現所属:ヴァンフォーレ甲府
トリニータ通算(リーグ戦):205試合55得点

 FWの2人目は”さんペー”の愛称で親しまれた三平和司。2011年に湘南からレンタルで加入したが、2年目の2012年に当時の田坂監督に右WBにコンバートされたことでブレイク。同じくFWからWBにコンバートされたチェ・ジョンハンが左WBとしてプレーしており、彼からのクロスに大外から飛び込む形で得点を量産。森島康仁と並んでチームトップタイの14得点を記録してJ1昇格に大きく貢献した。
しかし当時は湘南からのレンタル延長中であり、そのまま買い取る財力もなく京都に移籍。得点源の1つを失ったチームは数々の記録を打ち立てる惨敗で降格。様々な部分で彼の不在を感じる形になった。
 その後2015年に完全移籍で戻って来たがチームは低迷しJ3降格の屈辱を味わうことに。それでも2016年はチームに残り大分の為に戦い、前半戦こそ怪我離脱があったものの尻上がりに得点を量産しJ2復帰に大きく貢献。そのままJ2でも得点数では表せない貴重なピースとして活躍。特に2018年は千葉戦での2得点や天王山となった松本戦での決勝ゴールなど終盤戦に活躍を見せてJ2月間MVPを獲得。2桁得点カルテットの1人としてJ1昇格に大きく貢献した。
 自身9年ぶりのJ1となった2019年以降は得点数こそ減ったものの、FW陣における古株としてチームに欠かせない戦力に。特にシーズン序盤は新戦力が優先される傾向だが、中盤戦以降気づいたら出場機会を増やしている印象だった。それだけに2020年オフの自由契約は、年齢的な部分を考えたら仕方ないのは理解していたが正直寂しさや驚きはあった。結局、三平が退団した2021年は2013年と同じく降格という形に。もちろん戦力不足や主力の移籍が大きかったが、ムードメーカーな彼の不在はチームの雰囲気に直結していたのかもしれない。
 彼本人は2021年からヴァンフォーレ甲府に在籍。2022年は天皇杯を制覇しクラブ史上初のタイトルを齎すなど活躍を見せている。独特なアフロヘアーも相俟ってすっかり甲府の選手として認識されているのは寂しくもあるが…。
”さんぺー”はキャラのイメージが強すぎるが、選手としてはかなりクレバーな部分を持っていて、かなり細かいディテールを要求される片野坂スタイルにも馴染み、イメージとは裏腹にかなり頭の良い選手だと感じている。クラブへの貢献という点でも実はリーグ戦通算55得点は高松大樹氏に次いでクラブ歴代2位。ムードメーカーとしてだけでなくしっかりと歴史に名を残している選手である。

高松大樹


在籍年:2000〜2010,2012〜2016/現所属:引退
トリニータ通算(リーグ戦):360試合75得点

 FW最後の1名は、この人抜きではトリニータは語れない、ミスタートリニータこと高松大樹。
 2000年にJ参入2年目のチームに加入すると、2年目から頭角を表し始め、大分スポーツ公園総合競技場(現呼称:レゾナックドーム大分)での柿落としの試合では前半開始早々にファーストゴールをゲット。2002年のJ1初昇格にも貢献し、2003年はクラブ史上初のJ1での公式戦となるナビスコ杯の京都戦で初ゴール、J1リーグ戦の初ゴール&初勝利を呼び込むG大阪戦でも2ゴールを記録するなど、常にクラブの歴史に刻むゴールを決めてきた。それは2008年のあのナビスコ杯決勝でも先制ゴールとなるヘッドを決めMVPに輝いたことでも証明されている。彼がミスタートリニータと呼ばれる所以はただトリニータに残り続けたからだけではなく、このような記憶に残るゴールを決める勝負強さもある。
 早くからの活躍もありアテネオリンピックのメンバーにも選ばれ、イタリア戦ではゴールも決めるなど着々とキャリアを積み上げた。2005年オフには浦和レッズからのオファーもあったが熟考の末に残留すると、2006年は自身初のJ1での2桁を記録し当時のオシム監督からA代表にも選出された。この年9月にデビューした梅崎司に続き、トリニータ所属の選手として日本代表の試合にも出場。ちょうどこの頃から怪我にも悩まされるようになったが、若手の多いチームでリーダー的存在として存在感を増した。
 2009年に降格した後もチームに残ったが、2011年には財政難によりFC東京にレンタル。思えばこの移籍は片道になるのではないか…という不安はあった。結局戻ってきた2012年は精神的支柱としてJ1昇格にも貢献し、2013年は苦しいシーズンながらもシーズン初勝利となった新潟戦で自らのゴールと土岐田洸平の劇的ゴールをアシストするなど要所で活躍を見せた。
 キャリアも終盤に差し掛かり更に怪我に苦しむことが増えた中、2015年は入れ替え戦でPKをゲットしたがこれを外してしまいチームはJ3降格。”ミスターがPK失敗するなら仕方がない”とは思ったものの残酷な試合ではあった。J3でもチームに残った中でチームは首位の栃木を追い越せずに居た中、起爆剤の意図も込めて現役引退を発表。キャリア後半は怪我に苦しむことが増えたが、チームをJ2に戻して現役を終えた。
 現役引退後は大分市議会議員へと異例の転身。大分の為に粉骨砕身した男は、第2のキャリアでも大分の為に献身なポストプレーで貢献している。360試合出場75得点はいずれもトリニータのクラブ歴代最多記録で、まさに彼抜きでは語れない”ミスタートリニータ”である。

◆SUBSTITUTION

高木駿


在籍年:2017〜/現所属:大分トリニータ
トリニータ通算(リーグ戦):155試合0得点※2023年5月21日現在

 続いてはサブ。まずはGKだが、こちらは現所属選手である高木駿をチョイス。2017年にトリニータに加入したが、この年は開幕スタメンこそ掴んだものの多くは上福元に譲った。ただこの年のオフに上福元が移籍したのもあったのかもしれないがラスト2試合で守護神に復帰。翌2018年は正GKとして全試合に出場しJ1昇格に大きく貢献すると、2019年もJ1で全試合出場を達成。最後方からのビルドアップでチームの躍進に大きく貢献。
 しかし2020年はチームに負けが込んだ時期もありGKをムン・キョンゴンに譲ったが、最終盤には再び正GKの座を掴み返した。翌2021年も連敗によりポープウィリアムに正GKの座を4ヶ月に渡り譲ったが、スタメン復帰したマリノス戦で5失点はしたものの好セーブを連発し正GKの座を取り戻した。チームの降格こそ防げなかったが、天皇杯では好セーブを連発。準決勝の古巣・川崎戦では前半から再三再四の好セーブを連発し、PK戦では2本ストップし決勝進出に大きく貢献。決勝でも取られたら終わりとなる絶体絶命のピンチを防ぐなど獅子奮迅の活躍を見せた。
 2022年は開幕から正GKとして奮闘するも離脱期間に台頭した吉田舜が正GKに定着しシーズン終了までSUBだったが、プレーオフで再び正GKに返り咲き。今季2023年も開幕から西川に正GKを譲ったが、初出場の仙台戦で落ち着いたビルドアップを披露し正GKを取り戻した。
 このように高木はここ数シーズン毎年正GKを譲っているが、必ずその座を取り返しているリバウンドメンタリティの持ち主である。最大の特徴である左足のビルドアップとチームを盛り上げる明るいキャラクターでチームに貢献している”俺たちの高木駿”。現在はグロインペイン症候群で離脱中だが、ピッチ内外で彼の活躍がJ1復帰に不可欠である。ちなみにトリニータのGKとしての出場試合数は既に歴代最多である。

三木隆司


在籍年:2000〜2007/現所属:引退
トリニータ通算(リーグ戦):226試合2得点

 続いて選出するのはCBの三木隆司。2000年に当時のベルマーレ平塚から大分にやってくると主力の1枚として活躍。2002年には全試合出場でJ2優勝とJ1昇格に大きく貢献。2003年はチーム自体は深刻な得点力不足に陥るが、守備陣では彼とサンドロと鉄壁のコンビを築いて2年連続の全試合出場を達成。
 その後も守備の要として活躍し、サンドロが抜けて以降はDFリーダーとして活躍し、シャムスカ体制になってからは3バックの中央でDF陣を統率した。2006年からは加えてキャプテンとしてチームも統率することになった。ただ2007年には森重真人が台頭しベンチを温める機会が増えたこともあり移籍を決断。
 移籍した名古屋では強力なCB陣の壁もあり、徳島に移籍することに。徳島でも大分の時と同様に若いチームを引っ張る選手として2011年までは主力として活躍。引退年の2013年には出場機会こそ減ったが、ベテランとしてクラブ史上初のJ1昇格に大きく貢献して現役を引退。現役引退後は名古屋グランパスの各カテゴリーのコーチを歴任し、2023年からはトップチームのヘッドコーチとして上位を走る好調なチームを支えている。
 三木はトリニータがJ1に進む過程、そしてJ1で定着する中では欠かせない選手でもある。1vs1の強さやカバーリング、サンドロが抜けてからはDF統率力にも優れていて鈴木義宜と同じくまさに”守備者”という選手だった。余談だがプレー中の目付きが鋭く、同じくギラっとした顔の上本大海とスキンヘッドの深谷友基との”強面3バック”は見ている方としてもインパクト絶大だった。

三竿雄斗


在籍年:2019〜2022/現所属:京都サンガFC
トリニータ通算(リーグ戦):138試合2得点

 続いての選出は昨シーズンまで在籍していた三竿雄斗。2019年に鹿島アントラーズから加入して4年間トリニータの為に戦った鉄人。
 元々のプロキャリアは湘南ベルマーレからスタートしたが、2014年に記録に残る圧倒的な強さだった湘南に4−0の大敗を喫した時に苦しめられていた選手としての記憶は大きかった。その後移籍した鹿島では怪我もあり出場機会を得られず、J1で戦うチームに貴重な補強としてトリニータに加入。
 加入初年度こそJ3から積み上げた3枚がCBとして君臨していたが、中盤戦からは左CBのレギュラーを獲得。FKも蹴れる左足の精度と何度でもアップダウンするスタミナを武器に、右偏重だった攻撃に新たな風を吹き込んだ。
 三竿の特出した部分としてはそのタフさ。開幕からレギュラーとして活躍した2020年以降の3年間でのリーグ戦の欠場試合数はわずかに2。特に実質半年だった2020年やルヴァンカップとの両立で超過密日程となった2022年は全試合出場。怪我だけでなく感染症もある中で3年間ほぼ全試合に出場し、怪我に悩まされ大分へと移籍したのが嘘のようなタフネスっぷりを見せた。
 現在は年齢も30代に差し掛かり、再びJ1でプレーする為にプロ入り当初の恩師である曹貴裁監督が率いる京都へ移籍。2023年の前半戦は怪我に苦しみほぼ出場機会がなく、後半戦の巻き返しに期待したい。三竿は特に片野坂体制の後期におけるキープレイヤーとして、特に岩田と鈴木が移籍した2021年は欠かせない選手としてクラブの歴史に名を刻んだ。

藤田義明


在籍年:2006〜2010/現所属:引退
トリニータ通算(リーグ戦):119試合2得点

 続いて選出するのはスーパーユーティリティとして活躍した藤田義明。2006年途中にジェフ千葉からレンタル移籍で加入すると、複数ポジションをこなせるユーティリティとして重宝され、2008年からは完全移籍に移行。藤田本人としてはレギュラーとして活躍したのは在籍最終年の2010年の半分のみだが、怪我や出場停止等で出られない選手が居た時に、CB・SB・ボランチ・WBと当時の3−4−1−2の前線
3枚以外の全てのポジションを埋める活躍を見せた。それはあのナビスコ杯決勝でも同じで、左WBに入る鈴木慎吾の出場停止に伴い左WBとしてスタメン出場。後にトリニータでプレーすることになる兵働昭弘らとマッチアップし、堅実なプレーで無失点勝利での優勝に大きく貢献。”12番目のプレイヤー”としてシャムスカ体制において欠かせない選手となった。2009年には怪我人続出でスタメンから出る試合も多かったがチームは降格。その後多くの選手が移籍する中で藤田は2010年もプレーした後、ジュビロ磐田に移籍。
 磐田移籍後はユーティリティではなくスタメンで守備の要として活躍。2014年にはかつてプレーしたシャムスカの監督就任により中心選手として活躍し、2015年にはドームで磐田が昇格を決めた試合でも出場。2016年以降はJ1ということもあり出場機会を減らしたが、ここでも貴重なユーティリティとして活躍し2020年に引退。引退後は各カテゴリーの指導経験を経て、2023年からはジュビロ磐田のU-18監督に就任。未来のサックスブルーの育成に尽力している。
決して派手なプレーではなかったし、今回選出した選手の中では最もプレータイムが少ないかもしれないが、タイトル獲得を筆頭に黄金期を支えた欠かせない選手だった。

梅田高志


在籍年:1998〜2007,2009〜2010/現所属:引退
トリニータ通算(リーグ戦):246試合13得点

 続いて選出したのは、ある意味高松大樹よりもミスタートリニータかもしれない梅田高志。旧JFL時代からJ1昇格〜J2降格をも経験したクラブのレジェンド。
 トリニータとの出会いはまだJリーグ昇格するよりも前、クラブ名が大分トリニティ時代の1998年に加入した。加入した年にJリーグ昇格、その後3年間に渡り最終節で逃したJ1昇格、2002年の初昇格にも決して不動の主力という訳ではなかったが貢献。クラブの成長の道のりには必ず彼がそこに居た。
 2003年は右SBとして欠かせない戦力に成長し、初のJ1で全試合出場。チームがJ1を戦い抜く仕様に変貌する中でその過程もやはりそこには彼が居た。ちょうどこの年の途中に加入した左利きの根本裕一と共に、左右のSBとしてキック精度を活かしてセットプレーの時にボールサイドに立っている姿もよく印象に残っている人も多いのではないかと思う。そこから2005年まではレギュラーとして右サイドから必殺のクロスで貢献。2005年にはJ1で3得点と意外な得点力も発揮した。
 しかし2006年はルーキーの高橋大輔にポジションを譲るようになり出番が激減。2008年には地元の岐阜にレンタル移籍となった。2009年に復帰するも出番は得られずにチームは降格と経営難に直面。多くの主力を売却することになった2010年は出場機会を再び増やしたがこの年限りで引退。
 引退後はトリニータのユースの様々なカテゴリーで指導を歴任。現在トップチームで活躍している高畑奎汰や弓場将輝等を指導し、引退後もトリニータの発展に尽力した。惜しむらくはナビスコ杯を獲得した2008年にレンタル移籍していてトロフィーを掲げられなかったこと。とはいえトリニータがJリークで戦い、J1のクラブとしてクラブの価値を高める過程において、その核の存在となったレジェンドなのは間違いない。

後藤優介


在籍年:2012〜2019/現所属:モンテディオ山形
トリニータ通算(リーグ戦):163試合48得点

 続いて選出したのはFWの後藤優介。鹿児島からトリニータユースの門戸を叩いた”ゴレアドール”。
 2012年にユースから昇格した時は線も細く、この年はHOYO Atletico ELAN大分(現・ヴェルスパ大分)にレンタル移籍するもゴールはなし。翌2013年もチームがJ1のため出場機会は希薄。2014年頃から少しずつ出場機会を増やしたが2015年にJ3降格。
 しかし転機は2016年のJ3でのプレーだった。伊佐・三平らと2トップの出場機会を争う中、藤枝戦でプロ初のハットトリックを記録。またラスト10試合で4試合連続ゴールを含む7得点と大暴れし、チームの逆転でのJ2昇格に大きく貢献。リーグ2位となる14得点を記録しエースの座を確立した。ここで得た自信はJ2に戻っても失われることはなく、巨大戦力を有する名古屋相手のハットトリックは今でも強烈なインパクトとして記憶されている。また群馬戦でもハットトリックを記録し、1シーズンで2度のハットトリック達成はクラブ史上初。出場試合数41試合17ゴールとJ3時代を上回る記録を記録し、名実共にトリニータのエースとして覚醒した。
 2018年は藤本憲明や馬場賢治といったFWの補強もあり、前年ほど不動の位置は確立出来ずに熾烈なレギュラー争いを繰り広げたが10得点と3年連続の2桁ゴールを達成し、藤本・馬場・三平と2桁得点カルテットを形成しJ1昇格に大きく貢献。しかし2019年はチームがJ1仕様の戦いに舵を切る中、特に後半戦はオナイウ阿道の身体能力が優先される場面も多くなり出場機会を減らしたが、それでも浦和戦の劇的ゴールなどインパクトは残した。結局この年のオフに出場機会を求めて清水へと移籍した。
 その後は清水でのプレーを経て現在は山形でプレー。ライバルとして立ちはだかることになったがお互い切磋琢磨したい。後藤はトリニータ通算のリーグ戦得点数が48点だが、これは高松・三平・ウィルに次ぐクラブ歴代4位でユース出身選手としては歴代最多。これも確かなクラブの歴史であり、現在プロを夢みるユース生のFWの子達には、この記録超えを目指して頑張ってほしいと思う。

マグノ・アウベス


在籍年:2004〜2005/現所属:引退
トリニータ通算(リーグ戦):62試合29得点

 最後に選出したのはブラジル代表歴もあるFWのマグノ・アウベス。今回この選出企画は基本的に出場100試合以上の選手を対象としていますが、マグノだけは例外とさせてほしいというぐらいにインパクトのあったゴールマシン。
 2004年にKリーグのクラブから加入。前年の深刻な得点力不足を埋める補強で、開幕2試合連続ゴールと幸先の良いスタート。しかしその後はタイトなマークに苦戦しピタッと止まってしまうが、8月以降には4試合連続ゴールを記録するなど本領を発揮し11得点とクラブJ1史上初の2桁得点を達成。
 その活躍で他クラブからのオファーもあったが2005年も大分に残り共に戦った。中断前までは12試合で7得点とハイペースにゴールを積み上げたが、再び夏場に調子を落としそれがチームに直結。残留争いの渦中に巻き込まれる中、監督交代後の浦和戦で決勝ゴール。その後の”シャムスカ・マジック”と言われたV字回復の中で彼は12試合で10得点と前半戦を上回るゴール量産ぶりを見せ、その輪の中心に君臨した。結局リーグ3位タイの18得点と残留を手土産にガンバ大阪へ移籍した。
 ガンバ移籍後の2006年は26得点で得点王を獲得し大活躍した後にカタールへ移籍。その後は中東やブラジルでプレーし続け、2021年に45歳という長いキャリアで現役に幕を下ろした。
 マグノは紛れもなく残留の立役者であり、トリニータに在籍したFWの中で最も度肝を抜いていたFWなのは間違いない。得点率という観点で見てもアンドラジーニャに次ぐ数字を残しているが、全てJ1ということを考えれば歴代最強FWで異論はないだろう。ただマグノを選んだのはそれだけの理由でもなく「残留するならそれはサポーターの為だ」や「大分トリニータはまだ死んでいない」等の心を動かすコメントも選んだ理由の1つでもある。また在籍時は大分市内のファミレス”Joyfull”で度々目撃されていたのも懐かしいエピソード。世界の感染症情勢も落ち着きつつある今、時間があるならJoyfullやドームにも遊びに来てほしいなと思う。

◆監督

片野坂知宏

在任期間:2016〜2021/現所属:フリー
トリニータ通算(リーグ戦):220試合91勝53分75敗/平均勝ち点:1.48
J1:106試合32勝29分44敗/平均勝ち点:1.18
J2:84試合40勝20分24敗/平均勝ち点:1.67
J3:30試合19勝4分7敗/平均勝ち点:2.03

 最後に選出した監督は、初のJ1昇格を成し遂げた小林伸二監督、怒涛のV字回復からクラブ史上初のタイトル獲得にも導いたペリグレス・シャムスカ監督、経営難の厳しい状況からJ1昇格に導いた田坂和昭監督らも候補になると思うが、J3からJ1にチームを導いた片野坂知宏監督を選出した。

 2000年と2003年に選手としてプレーし、決して不動の戦力とまではならなかったが主将としても奮闘した、クラブがJリーグに参入して以降で史上初のOB監督。現役引退後はトリニータのスカウトを経て、選手時代に所属したサンフレッチェ広島やガンバ大阪のコーチとして数々のタイトル獲得に貢献した。
 その頃のトリニータは田坂監督解任後も当時の柳田強化部長の内部昇格という、外部から監督が招聘出来ない状態のままJ3降格し柳田も退任という状況で、そもそも監督の成り手が見つかるのかという不安があった中でオファーを受諾して頂いた状況だった。
 そんな中でのスタートだった片野坂体制、まさにゼロからのスタートの中でサッカーのスタイルもポゼッション型に大幅に変更。だがそんなに簡単にスタイル変換など出来るはずもなく、簡単なミスからの失点で失う試合も多かった。7月末には首位栃木に勝ち点9差を離されるという、限りなく赤に近い黄色信号の状況で現実路線に方向転換。GKにセーブ力に定評のある修行とボール奪取に長ける姫野を抜擢。中断明けのラスト10試合を8勝1分1敗のハイペースさで勝ち点を積み上げ、ラストは5連勝でノルマだった1年でのJ2復帰を決めた。今振り返ると2018年の昇格争いや2021年の残留争いなど厳しい場面も多かったが、片野坂体制で最も理想を捨てて勝利に徹したのは2016年の終盤戦だったのではと回想している。
 J2復帰を果たした2017年は開幕の福岡戦での劇的勝利でスタートしたが、システムを自身の師であるミシャ・ペトロヴィッチ監督の代名詞3−4−2−1に変更。この年のJ1から降格してきたチームに6戦無敗など臆せずにボールを繋ぐサッカーはJ2でも通用することを証明した。中盤戦以降、特にホームゲームで苦戦する場面もあったが第41節の徳島戦で敗れるまでJ1昇格の可能性を残す形で、残留争いとは無縁の期待以上のシーズンを送った。
 翌2018年は開幕から全開で首位争いを繰り広げ、甲府戦での大敗等もあり12敗は正直多い数字ながらもJ1昇格を達成。76得点はリーグ最多得点ながらも最多得点者は藤本と馬場の12得点で、三平と後藤も10得点を記録するなど特定の選手に依存しない作り込んだサッカーでJ3降格から僅か3年でJ1昇格を掴んだ。
 J1に戻ってきた2019年の初戦はアウェイ鹿島戦。私も参戦したが正直勝ち点を持ち帰れれば…と思っていた中、J3から培ってきた後方からのビルドアップで穴を空けた後に前進する”疑似カウンター”が炸裂し大金星と言える勝利。この勝利で勢いに乗ったチームはこの年の優勝チームであるマリノスにも完勝するなど大躍進。夏に藤本憲明を引き抜かれたこともあり、やや失速したものの残留争いと無縁でシーズンを終え、この年のJ1優秀監督賞に輝いた。
 2020年は降格のないシーズンながら夏場には連敗が込むこともあった。それでも勝てば優勝が決まる川崎戦で優勝を阻止する勝利など一定の成果を上げた。しかしオフに岩田や鈴木などレギュラークラスを半数引き抜かれる辛い形で2021年がスタート。流石にこの状況では戦術の浸透含めて厳しく、春先には7連敗を喫する厳しいシーズンに。夏以降ちょっとずつ勝つ試合も出てきたが、滅多に口にしない審判への苦言を呈するなど精神的にも厳しいと思われる状況に陥った。9月以降は3バックが固まったことにより失点減で勝ち点を拾う試合も増えたが、最後まで攻撃の迫力不足が響きアウェイ鹿島戦で引き分けてJ2降格が決定。奇しくも2019年の躍進の始まりの地でJ1での冒険が終わった。

 その翌週に6年率いたトリニータ監督の退任を発表。翌日の横浜FC戦を意地で勝利すると、最終節の柏戦でも勝利。最後は有終の美…と思いきやまだ最終章が残されていた。この年に勝ち残っていた天皇杯の準決勝でリーグ王者の川崎と対戦したが、慣れ親しんだ3−4−2−1ではなく川崎対策の4−3−1−2で接戦に持ち込み、延長後半に先制を許すも延長後半ATにトレヴィザンが劇的な同点ゴールを決めると、PK戦をその勢いで制してクラブ史上初の決勝進出。片野坂トリニータの最終章はこの年の最後の試合となる天皇杯決勝というドラマチックな舞台に。
 決勝は先制を許すも粘り強い形で追加点を許さず、後半からは慣れ親しんだ3−4−2−1に戻し後方からのビルドアップも見せ、6年間の集大成とも言える45分を展開すると土壇場でペレイラのゴールが決まりそれが結実。再びドラマを起こした…はずだったが浦和の槙野智章に劇的ゴール返しを喰らい、片野坂体制最後の試合は劇的な形での敗戦で幕を閉じた。

 とにかく起伏の激しい6年間であったが、丸6年指揮を執ったのはクラブ史上最長。結果だけ見ればタイトルを取った分だけシャムスカに軍配が上がりそうだが、長らくクラブ規模もあり現実的なカウンタースタイルだったトリニータのスタイルを変貌させた手腕が何より大きかったと思う。今や現在の下平体制を含めても”大分はポゼッションが上手い”という他クラブからの評価を見ることも多いが、それは何より片野坂体制で培った賜物だと思う。クラブにはそのイメージとなるサッカーがあると思うが、シャムスカ期のイメージを完全に塗り替えた監督なのは間違いない。
 もちろんその手腕や実績も評価される監督ではあったが、対戦相手をさん付けしたり記者会見や練習場での丁寧な姿勢や、2021年に大きく話題になったワッキー氏のギャグである芝刈り機のモノマネを披露するなど気さくな一面など、人間としても非常に魅力のある監督だった。J1に上がってからは監督ながらも”チームの顔”としても認知されることも多く、まさに大分トリニータをあらゆる意味で変貌させた監督として、その歴史は燦々と輝いている。


私が選ぶトリニータベストイレブン


あとがき

 今回は今月15日にJリーグ開幕30周年を迎えたこともあり、地元のJリーグクラブである大分トリニータの歴代ベストイレブンを私なりに選出した。少し触れたが長くこのクラブのために戦ったこととして、マグノ・アウベスのみ例外として選出したが、基本は出場100試合以上の選手を対象とした。その為、森重真人や金崎夢生といった2008年のナビスコ杯制覇に貢献し、移籍して以降も大きな実績を残した選手は選出していない。これには大いに異論もあると思うが、それは私個人の選出なのでカジュアルに見て欲しいなと思う。
 大分トリニータは1999年にJ2に参入して今年で25年目。思えば私が小さい頃から存在しており、1999年の最終節で昇格を逃したことすら薄らとは覚えている。このnoteを書きながら様々なことを回想したが、思えば昇格を逃した創成期やタイトル獲得、経営難によるクラブ消滅の危機やJ3降格、そこからのJ1復帰などJクラブでも随一の沢山のことを経験した濃密なこれまでの24年だったと思う。40周年になった時に今居る選手が多くランクインすることを願っている。歴史を紡ぎながらも”今”が最高なクラブであり続けてほしいと思う。

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