「国家はなぜ衰退するのか」第6章
第6章 乖離
<この章のお題>
制度はときとともにいかに発展し、往往にしてゆっくりと乖離していくのか。
<この章の副題、まとめ、印象に残った箇所>
まず:この章の最後の節「初期の成長の帰結」へ。
ヴェネツィアはいかにして博物館になったか:11世紀頃から、コメンダ(貿易船ごとに組成した合資会社)には平民が貿易商人として参加するチャンスを得た。しかし14世紀には高率の課税とエリートによる独占で人口減少。包括的社会が収奪的社会に転落した例。
ローマ人の美徳・・・:当初は民主的とされたローマ帝国は衰退した。発展は収奪的社会の元に作られていた。その最たるものは奴隷(被搾取民)の存在。貧富の差が拡大、階層化、内戦の頻発、政情不安、の結果衰退。収奪的発展は続かない例。
・・・ローマの悪徳:「パンとサーカス」を得たローマ市民は創造的破壊をもたらさなかった。パンとサーカスの費用は中央に集積された富で賄われ、その富を求めて争う集団により政情不安な状態であった。政情不安は、当時の城塞の構造からも窺われる(城が山に作られたり、塀で囲まれていたりする)。大プリニウスは「金の価値が落ちては困る」ので「割れないガラスの発明者」を殺害。発明は王に届けなければならなかったこともわかる。エリートの創造的破壊に対する恐怖。
ヴィンドランダから手紙を書く者はいない:3世紀頃まではイングランドは発展していた。2世紀のローマ人の手紙は、当時ローマ帝国に手紙、読み書きの能力、金融サービス、郵便制度、道路、建築技術があったことがわかる。しかし、4世紀には衰退して住民は僅少に。
分岐する進路:イングランドではその後、17世紀頃から包括的制度が出現。経済的発展の拠点になった。偶発的な事象の積み重ね。ローマ帝国の衰退時期と同時に、イングランドも衰退した4世紀。貨幣の鋳造が止まり、都市人口が減少した。城塞が強固で高地に設置されている傾向から、この時期の欧州における政情不安が読み取れる。
初期の成長の帰結:この説では、これまでのまとめが簡潔にまとめられている。
紀元前9500年に始まった新石器革命から19世紀末のイギリス産業革命までの長い期間には、経済の急成長が何度となく起こっている。急成長のきっかけとなった(無理くり作りだした)制度的イノベーションは行き詰まる。古代ローマ、ヴェネツィア、などが繁栄後、衰退した例。どの例も、イングランドにおける包括的(誰でも自由に参加して富を享受できる)制度の発展と産業革命に直結したわけではなく、あらかじめ定められた単純なプロセスではなかった。中世では、黒死病で多くの民が死んだ。その後の労働力不足が中世の封建制度を強化したケースと、封建制度を崩壊させたケースが国境を境にくっきりと浮き彫りにされ、現代の国ごとの貧富の差に結びついてもいる。次章からは、17世紀以降を見ていく。
※Workingmom21の私見:ここまで読むと、とにかく紙や石に残された記録が有る限りしか歴史は振り返ることができないのだ、と思い知る。つまり、労働や家事に明け暮れ記録を残す余裕が無かった者、滅ぼされた文明、口述で少数民族が繋ぐ伝統は、歴史で「無き者」とされてしまうのだろう、と想像される)。